桜の雨が降る 3部2章6
普段は夢を全く見なかった優桜は、ガイアに来てから、頻繁に夢を見るようになった。
内容は、実のところあまり覚えていない。もやもやとした、その夢のいちばん芯にあるような部分――例えば、あたたかいとか、哀しいとかを「夢の内容」として覚えている時もあれば、目覚めたときは自分が夢の中で着ていた服装の詳細を言えるほど覚えていても、食堂で仕事をしたり家事を手伝っている間に忘れてしまう時もある。
夢は、心の状態を映すとどこかで聞いた。そう言っていたのは誰だっけ――明水ではないように思う。だって、明水が自分に言ってくれたことなら胸のうちに大切にしまって、いつでも思い出せるようにしているのだから。
その誰かが言っていたことが正しいなら、優桜の夢は心を映しているというわけだ。
だから、その日も夢を見たのかも知れない。
夢の中で、優桜はふくふくの赤ん坊だった。あたたかそうな花の色のベビーウェアを着ている。目の前に積んであった、鮮やかな色に塗られた積木をぶつけ、ご満悦で遊んでいた。
きれいに掃除されたカーペットが敷かれた、あたたかな室内。最初、優桜は懐かしい自宅にいるんだと思っていた。
けれど、どこか違う。赤ん坊の頃の記憶だから、見覚えがないんだと思っていたけれど、そうじゃない。
天井が高いのは、自分が赤ん坊だからだ。だけど、この天井は木目だった。優桜の自宅の天井なら、白い壁紙のはず。
窓の外の景色も違う。雪をかぶった木がたくさんある。優桜の家の庭に、こんなに木はない。
自分の家じゃない。では、ここはどこ?
周囲を見回す。カーペットとおもちゃ。その先にソファが置いてあって、すぐ横に幼児用の椅子がある。その向こう側からトントンと規則正しい音がしていた。聞き覚えがある音――優桜はすぐに包丁を使う音だと気づいた。一定のリズムで刻んでいる。これだけ包丁を使うのは難しいだろう。優桜だと音は途切れる。
「ただいま」
包丁の音よりもっと向こうからドアが開け閉めされる音がして、続いて男性の声がした。ぴたりと包丁の音がやむ。
「おかえりなさい」
女性の弾んだ声が答えた。どちらの声も年若い。二十歳前後ではないだろうか?
優桜の両親なら、優桜が赤ん坊の頃はもっと年かさだったはず。
「ただいまー」
ソファの陰から、レザーコートを着た男性が姿を見せた。背の高い黒髪の男性。二十代半ばに見えた。優桜の知らない顔だった。外出から帰ってきたところのようで、肩に雪が白く残っていた。寒さで僅かに紅潮した頬が、やさしい笑顔に緩んでいる。
彼は優桜を――赤ん坊を持ち上げ、ぎゅっと抱きしめた。
とたんに、冷気が肌をさす。「冷たい」と言ったつもりだったが、言葉は優桜の口から泣き声になって飛び出した。
「えっ?! なんで泣くの?」
男性が驚いたように赤ん坊を自分から離し、顔を覗きこむ。照明が男性の髪を青く透かした。
「わかった。コートが冷たかったのよ。脱がないでぎゅってしたから」
女性がおかしそうに笑った声がした。
「あー。そっかそっか。ごめん!」
男性は器用なことに、赤ん坊を片手で抱いたままコートを脱ぎ落とした。そしてもう一度ただいまと言うと、赤ん坊を抱きしめる。今度は冷たくなかった。毛糸のセーターは、逆にとてもあたたかかった。ことんと肩口に頭をもたせかけて、ぬくもりに甘える。とても気持ちがいい。
男性の肩越しに、女性の顔が見えた。男性と同じで、やさしい笑顔だった。
化粧気はなく、長めの黒髪を後ろで編み込んでいた。男性よりやや年下に見える。二十歳そこそこではないだろうか? 穏やかで家庭的な雰囲気の女性だった。
男性の顔に見覚えはなかったが、この女性のことはどこかで見たような気がした。
(誰だっけ?)
学校の先生? 部活の先輩? 近所のお姉さん?
そうではない。実際に会ったわけじゃなくて、写真だ。どこで見たのだ?
アルバム。本。新聞。インターネット――。
そこまで考えて、やっと思い当たった。
深川絵麻だ。
すぐにそれと気づかなかったのは、写真より大人になっていて、そして何より、ずっと幸福そうだからだ。優桜が知っている写真の少女は、怯え、ひきつったような笑顔を貼り付けていたから、こののびやかな笑顔の女性と一致しなかったのは当然だ。
優桜の母の妹。姉に理不尽に殺められ、異世界へ転移した「フォルステッド」。
優桜は叫んだつもりだった。けれど、口から出る頃にはやっぱり泣き声になっていて、いきなりむずがりだした赤ん坊を男性と女性があやす。
「え、今度はどうしたの?!」
「眠いのかしら」
「僕帰ってきたばっかりなのに。もっと遊ぼうよー」
「大人の都合を赤ちゃんに押しつけちゃだめだよ」
女性が男性の腕から、優桜を――赤ん坊を取り上げて自分の腕の中に抱きこむ。
「よしよし。泣かないで大丈夫よ。ママが抱っこしてるから、ねんねしましょうね」
この赤ん坊は深川絵麻の子供なのか。叔母は子供を設けていたというのか。
いろんなことを聞きたかったのに、あたたかな腕の中でゆらゆらと揺らされていると、どんどん眠くなっていく。違うの。眠りたくないの。そう思っても赤ん坊の体はいうことを聞かない。意識がゆっくりまどろみに落ちる。
落ちて、落ちて――どんどんと落ちて。
気づいたとき、優桜は今までとは全く違う場所に立っていた。もう赤ん坊ではなかった。見慣れた自分の手。着ているのもベビーウェアではなく、いつものセーラー服だ。背中に髪が当たる感触がする。鏡はなかったけれど、間違いなく自分だ。魚崎優桜だ。
さっきまでのあたたかな室内とはうって変わった暗い場所だった。でも、闇に閉ざされているわけではない。黒に変わる寸前の青。そう、宵闇の色だ。オレンジの夕陽に見とれて、ふと反対を振り返ったときに見える、光を失った空。
一体どこなのだろう。なんで自分はこんな場所にいるの?
周囲を見回して、優桜はその空間に自分一人ではなかったことに気づいた。
少女がいた。自分と同じくらいの髪の長さで、彼女は髪を束ねずに流れるままにしていた。その髪と周囲の薄暗さのせいで、顔ははっきりとしない。優桜と同じくらいの年頃だろうか?
少女の白い肌に、何かが絡みついていた。周囲と同じ薄闇の色で、優桜が知っているいちばん近いものは、パソコンをつなぐケーブルだった。それは少女の腕に、胴に、頭に――体中に絡みつき、時折うごめいた。
ケーブルが少女の手足を絡め取り、動けなくしているのだ。だから、少女は逃れられない。つながれるままになっている。
優桜はその場に棒立ちになってしまった。助けなければと頭ではわかっている。でも、動けない。
やがて、うつむくままだった少女も優桜に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。
その澄んだ茶色の瞳が優桜を認めた時、優桜は息をのんだ。
さっきの女性と同じ顔。いや、さっきよりずっと優桜の知っている写真と近い顔。
この少女もまた、深川絵麻そっくりの顔をしていたのだった。
なぜかはわからない。同一人物なのか、よく似た別人なのか。
「……助けて」
少女は弱々しくそうささやくと、ケーブルが絡まった手を優桜に伸ばした。
動けないなんて言っていられない。優桜は自分の足を無理やり引っぱたいて動かすと、少女を縛りつけているケーブルに手をかけた。わりとあっさりと隙間に手を差し入れることができた。
優桜は力任せにケーブルを引きちぎろうとした。一度では無理。けれど、引っ張り続ければ何とかなるかも知れない。絡め取られ身動きが出来ない少女は、自分では脱出できないだろうが、優桜が手を貸せばなんとかなる。
「がんばって。今出してあげるから!」
『――出してなんかあげないよ』
ふいに、ぞっとするほど暗い声がした。
憎悪で凍てついたその声は、ケーブルの向こう側から響いてくるようだった。びくりと少女の体が跳ね、絡んだケーブルも跳ねる。
『あんた達だけは、決して許さないから』
声は憎悪と悪意で固められていた。あまりに凝り固まっているから、男性なのか女性なのかもわからないくらいだった。
「!」
優桜は反射的にケーブルを引っ張った。これがなくなれば、声は聞こえなくなると思ったのだ。それほどに聞いていたくない声だった。ケーブルに直接つながれたこの少女には、どれほどの悪意がのしかかっているのだろう。優桜は無我夢中で引きちぎろうとした。
でも、さっきまでは引っ張ることができたケーブルは、いつの間にか隙間なく少女に絡みついていた。それ自体が意思を持ち、少女の解放を拒んでいるように。
「どうして……」
優桜は引っ掻いて、爪で傷つけてケーブルをちぎろうとしたのだが、できなかった。ケーブルはどんどん硬質になり量が増え、少女の姿を隠していく。
少女は優桜を見て、微かに首を振った。その姿がケーブルに埋もれる。
「待って!」
伸ばした指先は届かなかった。
完全に視界から消えてしまう前、向こう側で少女が何かをささやいた気がした。しかし、それは優桜にはわからなかった。
少女が消え、目の前が薄闇に覆われる。憎悪の声だけがそこに残っている。優桜を呪っている。
キエテシマエドウシテオマエタチノセイダコンナニモアイシテイルノニ――。
恨みと憎しみでいっぱいになった声は――なぜか、悲しんでいるようにも聞こえた。
気づいたときには、優桜は布団の中だった。
これも夢かと思ったのだが、そうではないようだった。ガイアの、自分が暮らしているメリールウの部屋。彼女の健やかな寝息が聞こえている。時計は優桜が普段起きる時刻を指していた。窓の外も明るくなっている。
どうやら、これが現実で間違いないようだった。
優桜は起き上がると、のろのろと洗面所まで歩いた。蛇口を開けっぱなしにして、冷たい水で顔を洗う。頬に触れたとき、優桜は自分が泣いていたことに気づいた。
夢が心の状態を映すのであるなら――。
フォルステッドを探しているから、彼女の夢を見たのだろう。
両親を恋しがっているから、あたたかな家庭の夢を見たのだろう。自分の意識と願望が、夢の世界で混ざってしまったわけだ。
では、あの薄闇の空間は?
ケーブルに絡め取られていたのは、叔母なのだろう。叔母が絞殺されたという残酷な事実が、優桜の中で歪に膨れあがってあんなことになったのかもしれない。
それでは、あの憎悪に満ちた声は誰?
妥当な考え方をすれば、その主は――優桜の母なのか。
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