桜の雨が降る 3部2章5

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 優桜がアパートに帰ると、メリールウが洗濯の終わった服をベランダに運んでいるところだった。
「ただいま」
「おかえり、ユーサ」
 優桜を見ると、メリールウは笑顔を見せた。動きやすいようになのか、ウェーブのかかった赤い髪を今はひとつに束ねていた。
 メリールウ・シウダーファレス。優桜にしてみれば少し言いにくい名前の彼女は、『放浪者』(ワンダラー)というガイアでも珍しい一族の出身だ。
 特徴的なのは色合いで、メリールウは褐色の肌とイチゴのような赤い髪をしている。瞳も同じ赤だ。ガイアは多種多様な人間が混在しているが、メリールウと同じような肌や髪の人を、優桜は見たことがない。とても目立つのだ。名前も、放浪者の本来の綴りなら、日本のように姓が先に来るらしい。あまりに長くなるので、優桜はその名前を未だに覚え切れていなかった。
 独特の習慣と目立つ容姿のため、昔の暴君に疎まれ迫害されたという。迫害の手は放浪者だけではなく彼らに味方した人にまで及び――結果として、迫害から生き残った放浪者も周囲から拒絶されるようになってしまった。そうやって時が流れて、今でも放浪者への偏見や、関わり合いを避ける風潮が残っている。
 それでも、メリールウはとても陽気な女の子だ。時には差別を受けてしまう立場なのに、その笑顔は太陽のようだった。
「シャワー、浴びておいでね? 今洗濯機空いたから、浴びてる間にお洗濯やっちゃおう」
「その前に、干すの手伝うよ」
 優桜から見ると藤製に見える、洗濯物を入れる籠を取り上げようとしたら、メリールウは笑って優桜の手からそれを遠ざけた。
「だーめ」
 子供のような笑顔がのぞく。
「だいじょぶよ。二人分だから、すぐ干せちゃうもの」
 シャワー浴びておいでねと繰り返して、メリールウはベランダに出て行った。
 ここでメリールウと住むようになった当初は、優桜は家事をメリールウに任せきりにしていた。ガイアの習慣がまだわかっていなくて、メリールウがどこまで干渉されて大丈夫かもわからなくて、それに、家事を面倒だと思っていた。自分の家でもほとんど母に頼りきりだったのだ。もちろん、母の仕事が忙しいときは手伝ってはいたけれど。
 もっと手伝っていたら、母は倒れずに今でも元気だったのだろうか。そうだったら、優桜は母の犯した罪を今でも知らずにすんだはずで、そうだったのなら……。
 首を振って、優桜は考えるのを止めてしまった。もしも、の話をしたってはじまらないし、母が信じられないような極悪人だったのは変わらないのだ。ただ、優桜がそれを知っているか知らないかというだけ。
 ガイアの習慣に次第に慣れ、メリールウの考え方感じ方も多少わかってきた最近、優桜は少しずつ、メリールウを手伝うようになった。分担、とは言えないと思う。主体はメリールウだから。というのは彼女が意外にも手早く家事を片付けられるので、優桜が後でやろうとしていたことを、気づいたらメリールウが終わらせてくれているという場合が多々あるのだ。
「もうちょっとがんばろうっと」
 曇りガラス越しでも、メリールウの赤い髪はよく目立った。何か鼻歌を歌っているらしく、音が流れてきた。細くてきれいなメロディだった。
 優桜はそれを聞きながら、台所の隣にあるドアを開けた。
 そこは洗面所で、端の手狭な場所に乾燥機のついていない洗濯機が押し込められていた。さらに奥にドアが続いていて、そこはトイレとユニットバスになっている。トイレとお風呂は別がいいというのは事実だなと優桜は最近、そのわからなかった意見に同意するようになった。
 優桜はまず、パワーストーンが組み込まれた湯沸かし器のスイッチを入れた。入ってからではなく先に動かしておかないと、すぐにお湯が出ないのだ。機械が動くのを確認してから、優桜は着ていたトレーニングウェアを脱ぐと洗濯機に入れ、こちらもスイッチを動かした。洗濯自体は現代と同じく、機械がやってくれる。ありがたい。
 手早くシャワーを浴びるとさっぱりした。長い髪をふきながら台所に出て行くと、メリールウは洗濯を干し終えて椅子に座っていた。
「ユーサ、お茶飲む?」
「うん」
 彼女は古いマグカップ――ここに来てから優桜が使っているものにヤカンから湯を注ぐと、ダイニングテーブルの上に乗っていた缶から白い小袋を出し、ぽんとマグカップに放り込んで優桜に勧めた。
 近所の食料品店でいちばん安い値段で買えるこのお茶は、お菓子のように甘い匂いがする。では甘い味がするのかと聞かれると、そんなわけはなく、麦茶をお湯で薄めたような何とも言えない味がするのだった。それでも、いれ立てのうちはまだ飲める。しかし、時間を置くととんでもないことになる。優桜は急いで飲もうとしたのだが、熱くて無理だった。どうもメリールウは熱湯で入れたらしい。
 仕方なく優桜は香りを楽しむことにした。甘い匂いだけは本当に美味しそうだ。
 そういえば、今朝サリクスと一緒にいた子も甘い匂いがしていたなと優桜は思い出した。
「ユーサ、今日遅かったけど何かあったの?」
 心配しちゃったよと続けられて、優桜ははっとなった。メリールウに何も説明してない。
「ごめんなさい、メリールウ」
 優桜はメリールウに今朝の出来事を説明した。道を間違えて酔った男性に絡まれたことと、サリクスが助けてくれたこと。ウッドが具合悪そうにしていたこと。
「ウッド、具合悪かったの?」
「顔色よくなかったの」
「寝不足だったのかな?」
 メリールウは少し考えるようにしてからそう言った。
「ウッド、お仕事忙しい時あるからねえ」
 そういえば、この前ウッドは事務所で寝ていなかったか。泊まり込みで片付けるほど忙しい仕事を抱えていたのだろうか。そんな状態でレジスタンス組織まで主催するんだからやはり凄い人という認識でいいのだろうか。
「サリクスがいてよかった。サリクス、とっても強いから」
「そうなの?」
 優桜から見るとどう見ても遊び人なのだが。
 メリールウは自分のことのようににこにこした。
「困ったとき助けてくれるよ。ばんばんばーんじゃないけど」
「えっと、銃撃じゃないってことだよね?」
 さすがに慣れてきたが、メリールウはたまにこういう言い回しになる。擬音が混ざったり、言葉が略されていたり。
「そうそう! ユーサはやっぱりアレだね……えっと、サカシイ!」
「賢い、じゃなくて?」
 賢しい(さかしい)だと生意気だという意味になってしまう。
 でも、サリクスが強いというのはわかる。彼は優桜を助けてくれた。いきなり場に入っても、堂々と相手と渡り合っていた。本当に女の子が好きな遊び人であるなら、優桜を助けずにそのまま行ってしまうように思う。
「サリクスは、困ってたら絶対に助けてくれるよ。サリクスだけは無理でも、なんとかできちゃうから」
 メリールウの言葉には、少し意味が通じない部分があった。けれど、間違いなく信頼がこめられていた。
「ウッドもそう。だから、あたし、二人のこと好き」
 それはどういう意味の好きなのだろう。優桜は問おうとしたが、メリールウが「ユーサもおんなじ。おんなじに好き」と続けたので止めた。友人として、の意味なのだろう。
「だから、ユーサが絡まれたのはとっても心配。朝なのに、そんなに繁華街に入っていったわけでもないのに」
「繁華街って、誰でもいきなり絡まれる場所じゃないの?」
 優桜はウッドに「繁華街は昼間でも女の子一人では出歩かない方がいい」と聞かされている。法律事務所のビルは繁華街に近いので、優桜はひとりではビルから繁華街側には行かないようにしている。メリールウに連れて行かれたことはあったが。
 優桜の言葉を、メリールウはあははと笑い飛ばした。
「そんなことないよー。確かに奥の方に入ったら危ないけど、この辺りだったら大丈夫」
 繁華街には階層のようなものがあるのだそうだ。飲み屋や、合法な賭け事の店が軒を連ねるのは「表」。メリールウの行きつけのディスコも「表」になるらしい。この辺りは確かにオフィス街などよりは治安が悪いが、女の子が日のあるうちにひとりで歩いていて危険な目に遭う確率は低い。
 そして、非合法の「裏(アンダーグラウンド)」が存在する。住人達はここをプロファンダム――地の底と評する。過激な風俗店や違法な賭博、取り引きの禁止された物品を扱う店が立ち並ぶそこは、本当の地底のように光の届かない無法地帯。屈強な男性だとしても、夜にひとり歩きをするのは危ない。優桜のような年若い女性が足を踏み入れれば――。
「そっちに入っちゃダメだから、ウッドは最初っから入っちゃダメって言ってるのね」
 メリールウはうんうんと頷いていたが、優桜の頭には疑問符が並んだ。
「だって、看板がないんだもん。わかんないもんね」
「ああ」
 やっと優桜にも意味がわかった。繁華街に階層があっても、「ここから先は危険ですよ」なんて親切に区別されているわけではないのだ。考えれば当然だ。
 知らず知らずに紛れこんでしまうかもしれないし、多分だが、アンダーグラウンド側の住人が表側を通行している場合もあるだろう。そういう場所であるのなら、確かに最初から全てに近づかない方がいい。
「でも、ここからちょっと行っただけでってことは……治安、悪くなっちゃってるのかな」
 メリールウがぽつりと言った言葉が、優桜の心に引っかかった。
 優桜が行く場所は、どこでも安全だった。いきなり絡まれるとか、売り飛ばされかけるとかの危ないことはなかった。もちろん、優桜の出かける場所は父親に厳重管理されていて、父は優桜を盛り場になんか絶対に近づけなかったから、そういう意味の「安全」だったのかもしれないのだけれど。
 ぶつかって治療費、なんてそれこそテレビのやくざ物のドラマの中だけだと思っていた。日本は治安のいい国だと、誰かが自慢げに言っていた気がする。
 こういう時、改めて優桜は別の国に――世界にいるのだと感じる。そうして帰りたくなって、明水や学校の友達、そして、もう二度と顔も合わせたくないと感じていた両親すら恋しくなってしまうのだ。
「ユーサ?」
 うつむいた優桜を心配するように、メリールウが覗きこんだ。
「あたし、帰りたい」
 優しく心配されて、唐突に、押し込んでいた弱音がこぼれた。
 早く自分の本当の居場所に戻りたい。安全な場所に。大好きな人たちのところに。
 心配しているから。父なんかきっと真っ青な顔をして、もしかしたら泣いちゃってるかもしれない。お父さんは強そうに振る舞ってるけど、わりと涙もろいのよといつだったか母が笑っていたっけ。
 駄目だ。思い出したら、自分が泣きそうになってきた。
「……ごめんなさい」
 泣くまいと、優桜はぎゅっと目を閉じる。
「ユーサ」
 メリールウは手を伸ばして、優桜の手に重ねた。水仕事でかさついた手だったが、とてもあたたかかった。
「あやまらなくていいんだよ。心細くなって当たり前だよ。なんの準備もなく、いきなり来ちゃったんだもん」
 声を出したら泣いてしまいそうで、優桜はかろうじて首を縦に振った。
「だいじょぶだよ、ユーサ。だいじょぶだよ。帰れるから。ユーサはちゃんとおうちに帰れるから。みんな待っててくれているから。ね?」
 そう言いながら、メリールウは自分も泣きそうに顔を歪めていたのだった。
 いい人だと感じる。確かに行動が突飛で子供っぽくて、言葉を解釈するのに時間がかかったりするけれど、それでも、メリールウは優しい人なのだ。彼女が外見だけで後ろ指を指されるのは間違ってると思う。なんでこの世界の人はそんなふうにするんだろう?
「あたしも探すよ。ウッドにも頼んで、もっと探してもらお? サリクスにも助けてもらえるし、食堂のみんなだって」
 何度も首を縦に振って、優桜はようやく「ありがとう」と言えた。
 泣いている場合じゃない。嘆いている場合じゃない。
 自分は、強い大人の女性になりたいのだ。見ず知らずの場所で泣いているのでは、迷子の幼児と変わらない。いや、幼児なら可愛いし、これから迷子にならないように覚えればいいのだから、余計に悪い。
 フォルステッドを探しだそう。人任せではなく、自分でも動くのだ。
 そして、元の世界に戻ったら――明水に気持ちを伝えよう。
「? ユーサ、なにか言った?」
 メリールウにそう聞かれて、優桜は慌てて首を振った。今思っていたことを口に出していたのだろうか。だとしたら恥ずかしすぎる。
 優桜は何でもないとごまかした。あまりに恥ずかしかったので、ポケットに入れていたペンダントが熱くなっていたことには気づかなかった。
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