桜の雨が降る 3部2章4

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「それじゃ、あーんってしてください、お姫様」
 ヴィオは目の前の十六歳の少女を、六歳の子供の患者にするようにして扱った。喉の奥を調べている間、姫君は苦しそうに顔を歪めていたが、終わると明らかにほっとして息をついた。もの言いたげな視線を向けられたヴィオが笑顔を作ったのが、騎士にはわかった。
「だいじょうぶだよ」
「せんせー、ありがと」
 よく回っていないような口調は、幼い頃からこうだったのだろうか。
「「姫君の小さい頃って、こんなんだっけ?」」
 ヴィオと、彼の隣にいた、外見は違うのに思考回路がほぼ完全一致している相棒の声が重なる。弟二人から問いかけられた姉――ツェルは微かに首を振った。
「うん。二つか三つの頃からこんな感じだったな。かわいくって、わがままで、何の苦労も知らなくって」
 彼女はまさに『お姫様』だったのだ。だから、オボアが『姫君』とあだ名をつけた。
 騎士は実際のところ、幼い頃の姫君を全て知っているわけではない。はじめて出会った時、姫君は既に四歳を過ぎていた。澄んだ茶色の目を好奇心に輝かせて、初対面の騎士を見ていた。ちゃっかり母親のスカートの陰に隠れて。
 考えれば、そんな頃からずっと、騎士は姫君のことを愛しいと思い続けているのだった。だからこそ『騎士』という名前を頂戴しているわけだ。『姫君』にいちばん忠実な守り役は『騎士』だというのは、名前の付け方を仲間からさんざん罵倒されているオボアが言い出したことである。
「姫君、体調崩してないか? 大丈夫?」
 騎士に聞かれ、ヴィオは頷いた。
「脈拍も呼吸も異常なし。喉も赤くなってない……問題、ないよ」
 言いながら、ヴィオの声は心底沈んでいたし、その場にいた騎士もツェルもロンも、あどけない笑顔で自分たちを見ている姫君のどこに問題があるかは知っていた。
「ごめんな。俺たちでは治してあげられないんだ」
 ロンが姫君の前髪をかき上げて、ぺたりと手を彼女の額に当てる。姫君が目を閉じる。
「ホントごめんな。俺たち、治癒の能力持ってんのにな」
「女の子ひとり助けられなくて何が治癒なんだろうな」
 自分の力が及ばない場面に直面すると、この双子はいつも、色違いの全く同じ悲しい目をするのだった。
「でも、体の具合が悪くないってわかったら安心するよ。こんな状態じゃ、具合が悪くなっても病院に連れて行ってあげることもできないんだし」
 姫君は壊れていく間に、騎士たちに約束をさせた。それは、両親たちには絶対にこの状態を知らせないで欲しいというものだった。
 騎士とツェルは、その約束を受け入れた。どうしようもなく狂っていきながら、正常な判断力が残っていたがためにひどく苦しんでいた姫君の悩みを、騎士はどんなに僅かでもいいから減らしてやりたいと願った。側にいたから、彼女が苦しんでいたのを騎士は知っている。多分、ツェルも騎士と同じかそれ以上に、姫君の苦しみを知っていた。その二人を介して、全員がそのことを知った。
 今の姫君の様子を目の当たりにすることが、騎士の心を痛ませないわけがない。けれど、ほとんど何もわからない状態になっている今、姫君はあの頃より楽なのではないかとも少し思ってしまうのだ。そうして、姫君をこんな状態にした『エレフセリア』のことを、騎士は八つ裂きにしてしまいたいほど憎らしく思う。
 重くなった空気を、出し抜けに響いた古い携帯端末の着信メロディが破った。騎士が携帯端末を手元に引き寄せると、フリュトからメッセージが届いていた。
『DEAR.ナイトくん
 こーにちは! げ・ん・き? フリュトちゃんはちょー元気!
 「とっておき」をあなたにあげちゃいたくって(はぁと)メールしました!
 最近遊んでる? みんなの近況が知りたいから連絡ちょーDAY!
 お返事はいつもの方法でね☆
 あなたのフリュトちゃんより』
 騎士はぐったりと肩を落とした。
「騎士? どうした?」
 騎士は携帯端末をロンに渡した。それはロンからヴィオ、ヴィオからツェルへと回され、読み終わる頃には姫君以外の全員が同じように脱力していた。わたしもわたしもとまとわりついてきた姫君に、騎士は手元に戻ってきた携帯端末を、電源を切って渡してやった。
「これって『情報あるから連絡しろ』ってことでいいの?」
「たぶん」
 ツェルの笑顔が引きつっている。それはそうだ。いくら身元の露見を防ぎたいからといっても程がありすぎる。
「「なあ、フリュトも昔からこんな奴だっけ?」」
 ロンとヴィオの言葉は、計ったように同じ内容で同じタイミングだった。
「違った、と思うんだけどなあ」
 ツェルの声に自信がない。
 フリュトは、騎士の記憶が間違っていなければ、巻き毛とえくぼの手がとてもかわいい赤ん坊だったはずなのだが。いったいどういう経歴を辿ればこんなにかっ飛んだ性格が形成できるのか。
 ――自分が言えたセリフではないか。
 とりあえずその『情報』とやらを聞くため、騎士は姫君を寝かせた後でフリュトに連絡を取った。
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