桜の雨が降る 3部2章3
「あの子はいいの?」
「ステフのアパートもうそこだから」
サリクスは路地のすぐ向こう側の建物を指した。彼女はそちらの方向に歩いていた。
「大人ってのは、綺麗なお姉さんより、繁華街の入り口で絡まれちゃうような危ないお子ちゃまの方をおうちにおくってあげないとイケナイの。わかるかい、ベビーちゃん?」
おどけて付け足された言葉に、優桜はかちんときた。
「あたし、子供じゃないもん」
「そういうのは自分の足で立ってからいいな」
確かにそのとおりだった。でも、認めるのが癪だったから、優桜はサリクスの手を離して、わざと自分の手を地面について立ち上がった。
サリクスと一緒に引き返すと、法律事務所のある通りに戻る道から二本分奥に来ていたとわかった。
「サリクス……あの、ありがとうございました」
優桜が頭を下げると、サリクスは目を丸くしたあとで唇を歪ませた。
「デート一回」
「え?」
「ルーを呼び出して後ではぐれてくれるってのがオイシイか?」
黙ってしまった優桜の後頭部を、指輪を嵌めた手がぽふぽふと撫でた。
「さっき、お金渡したの?」
「いや? あれはうちの店の割引チケット」
よかったのかと聞いた優桜に、サリクスは首を縦に振った。
「別にいいさ。どうせ、いつだったか客引きに使った分の余りモンだ」
その時と同じ上着着ててラッキーだったよなと事も無げにサリクスがいうので、そんな軽くていいのかと優桜は不思議になった。お店のものじゃないのか。
そんな話をしているうちに、優桜のガイアでの住居である、食堂と法律事務所が入ったビルまで来た。仕事始めの時間とあって、ちらほらと人が行き来している。
「ありがとうございました」
もう一度礼を言って、優桜は螺旋階段を上がろうとしたのだが、サリクスに手をつかまれて、驚いて飛び上がった。
「反応がいちいち可愛いよなユーサ」
「何?」
「上まで行くよ」
ウッドに用事あるからと、サリクスはそのまま優桜の肩に手を回した。優桜が失礼にならない早さでその腕を外すと、困ったような、人好きのする笑顔を向けた。
「ユーサはつれないねぇ」
「女の子にはみんなこうするの?」
サリクスがさっきの女の子とも腕を絡めていたことを優桜は思い出した。
「男ならカワイイ子には誰でもこうするってば」
優桜が親しく知っている男性は従兄の明水だけであり、彼がこんなふうに女の子に馴れ馴れしくする姿は見たことがないし想像がつかない。明水に頭を撫でてもらうことは、幼い優桜には大好きなことだった。
今は嬉しくないのかと聞かれれば、そんなことはもちろんなくてちゃんと嬉しい。けれど、子供扱いの証明のようにも感じるその仕草は、悲しいことでもあった。幼い妹にするような扱いは、言外にまだ明水の隣を歩ける大人の女性ではないと言われているようなものだったから。
「この時間ならウッド事務所にいるよな」
そう言うと、サリクスは二階の法律事務所に歩いて行った。優桜もつられて後を追いかける。ドアを
ノックすると、少しして内側から開いた。開けてくれたのは優桜が見たことのない少年だった。優桜と同じくらいの年齢か、もしかしたら少し下かもしれない。内巻きの淡い金髪。プレスしたハンカチのような上品さがある。
サリクスはドアから、窓際の席の男性に向けて声を張り上げた。
「ウッド! ユーサが道で絡まれてたぞ」
開口一番、サリクスはそう言った。わりと大きな声に、ドアを開けた少年が驚く。
「え?!」
窓側にある自分の机の前にいたウッド・グリーンが立ち上がって入り口まで来る。
「ありがとう。オレの客だから」
ウッドはそういうと少年を下がらせた。彼は会釈すると並んだ事務机のひとつに戻っていった。確か以前は空いていたはずの机だ。
「? 新人さん?」
「あんま脅かさないでくれよ」
ウッドはサリクスよりだいぶ色素の薄い金髪の男性で、優桜からすればごく普通の、灰色のスーツを着ていた。朝早いせいなのか、今日は顔色があまり冴えない。
「道でって、何でまた」
「ごめんなさい。曲がり角を間違えたの」
「繁華街には入るなって言っただろ?」
声に非難が混じり、優桜はもう一度ごめんなさいと言うと頭を下げた。
ウッドはこの異世界で優桜を実質的に保護している人だ。この法律事務所と、一階にある優桜が普段働いている食堂を経営している。優桜の感覚では経営者と呼ぶには年若いが、ガイアではある程度年を重ねていて、実際にサリクスより五歳以上の年長者である。
「お前がいてくれて助かったよ」
ウッドが吐息混じりにサリクスに言うと、彼は「通りかかっただけ」とそれだけ言った。その言葉に欠伸が重なる。
「ふわー……じゃ、俺帰るわ。帰って寝る」
「お疲れさん。仕事だったの?」
「明け方までステフが寝かしてくれなかったのさー」
優桜が赤面したのを見て、サリクスはにやっと笑った。
「このお子様にちゃんと説教しとけよ」
ウッドは苦笑いした。
「わかった。たっぷり言い聞かせるよ」
「え? サリクス、用事は?」
優桜は思わず声を出した。彼はさっき、ウッドに用事があると言っていなかったか。
「もう終わったよ」
サリクスは肩をすくめた。
「ユーサはひとりだったら、何も言わずにそのまんまルーんとこ帰ったろ」
保護者にチクるまでが大人の仕事だと、サリクスはそう言った。そのとおりすぎて優桜は一言も言い返せなかった。
何でこの人は、こんなにもまともな時があるのだろう。
「それじゃ、お望み通りたっぷり言い聞かせましょうかね」
サリクスが鉄製の階段を降りていくのを見送っていた優桜に、ウッドが低く言い放った。その意外なまでの低さに、優桜は思わず顔を伏せる。
けれど、ウッドは結局、何も言わなかった。
「ウッド?」
不自然に開いた空白に、優桜は伏せていた顔をあげた。ウッドは優桜を見下ろしていたが、その時、元々冴えなかった顔色はさらに悪くなっていた。優桜を見ているはずなのに、琥珀色の目の焦点はどこか虚ろだ。
「どうしたの? 具合、悪いの?」
「大丈夫だよ。でも、説教は後回しだな」
彼は微かに笑っていたが、その声は掠れていた。
「え、でも」
「どっちみち仕事だ」
食い下がろうとした優桜の肩を押して、ウッドはドアを閉めてしまった。追い出されたような気がして、優桜はしばらくドアを見つめていた。
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