桜の雨が降る 3部2章1
2.仮初めの居場所
魚崎優桜には、早朝にランニングをする習慣がある。剣道のための体力作りとしてはじめたもので、習慣になってからは結構経っている。夜が明けて明るくなってから、近所をぐるりと三十分ほど走る。本当は一時間くらい走りこみたいのだが、夜明け前の暗いなかに出かけることを過保護な父親から断固反対されているため無理だった。そして、日の出の時刻が遅い冬場は、学校に行く時間との兼ね合いがあって、明るくなるまで待つと走る時間がない。この事で文句たらたらだった優桜を「一年ずっと走ってるんだからこの時期くらい休んでも大丈夫ですよ」と宥めてくれたのは大好きな従兄である。
その習慣は、ガイアに来てから久しく休業状態だった。理由はいくつかあり、いちばん大きな物としては優桜が習慣を守れる状態になかったことだ。地理がわからないのでどこをランニングコースに選んでいいのかも判断がつかず、トレーニングウェアなんて気の利いた物もなかった。夜明けの時間が早い時分にこんなに走らないのはなかったことだ。
ガイアに少し馴染み、優桜はまたランニングをやりたいと思い始めた。道場も部活もないから運動不足だし、職場には階段を降りるだけで着いてしまうのでウォーキングにもならない。このままだと確実に鈍ってしまう。そんなのは嫌だ。
それをウッドに相談したら、少し離れたところに公園があると教えてくれた。早朝ランナーは結構いると聞いたから、そこなら特に危ないこともないだろうと。彼が言った場所に下見に行ったら、優桜たちの居住しているビルから二十分ほどの、オフィス街の真ん中に公園があった。公園と言っても遊具があるわけではなく、球技の練習ができるような地面の広場と野外ステージだけで、その周辺をぐるりと整頓された花壇が取り巻いていた。この時期では花は咲いていなかったが、春にはきっと綺麗なのだろう。公園までに通る道も、特に危険を感じるものではない。優桜は公園を使ってランニングを再開することに決めた。最後に残ったトレーニングウェアの問題は、Tシャツをメリールウから、ズボンをサリクスの知り合いの女の子からお下がりでもらうことで解決した。
『ユーサ、こんなのでいいの? もっとかわいいのいっぱいあるよ?』
メリールウの言う『かわいいの』というのは赤やピンクといった、おそろしく派手な色合いかつ体にぴったりとしたチビシャツなのである。優桜にしてみれは『かわいくない』もの――少し大きめのTシャツで充分だった。どうやら商店らしいマークが入っているが、右胸のワンポイントなのでそんなに気にならない。ズボンは大きくて、折り返して何とかしようとと考えていたら、メリールウが器用に裾上げしてくれた。
最初、優桜は地面の広場で練習しようと考えていたのだが、いざ行ってみるとそこでキャッチボールやサッカーらしい球技の練習をしている人が既におり、断念した。ランナーはみんな花壇の周辺を走っているようだったのでそこに混じった。
そうして優桜の早朝の習慣は復活した。朝起きて三十分から一時間ほど走りこみ、帰宅してシャワーを浴びてメリールウと朝食を食べる。仕事がある時はその後一階まで降りて働き、ない時はフォルステッドについての調べ物をしている。ウッドからエレフセリアについての細かな雑用を頼まれることもあった。夕食はメリールウと自炊するのがほとんどで、たまに、ウッドとも一緒に二階の事務所で食べる。こういう生活がだいたい定着してきた。
ここが異世界であることが、優桜は今でも、あまり信じられない。現代と酷似しているから。
でも、少しずつ、少しずつ違うのだ。
いちばん最初に気づいたのは、テレビが普及していないことだった。優桜が思い描く家庭のリビングの中心にはテレビが常にあるのだが、違うのだ。代わりに中心にくるのはラジオだった。それなのにパソコンのほうは一般化していて、ひどく不思議だった。確かテレビは白黒のものが戦後からあったはずで、パソコンは優桜が生まれる少し前からの家電だと、確か学校の先生が言っていた。昔はプリントを作るのにワードプロなんとかという機械があったらしい。文字を打ちこんで印刷する機能だけしかなかったのにノートパソコンより大きく、プリンター機能も一緒についていたからその部分がごつごつと飛び出ていて、持ち運びは難儀だったという。優桜には想像がつかない話だった。
パソコンは自宅にあったものの、優桜はそんなに使う機会はなかった。なので、そんなに詳しいわけではないが、文字を打ったり表を作ったり、インターネットにつなぐことはできる。メリールウの部屋にはパソコンはないが、ウッドの事務所と図書館にはあるので、優桜は調べ物をしたい時は借りている。今でこそガイアの端末の使い方に慣れたが、実は各所で操作が微妙に異なり、最初は電源を切ることもひとりではできなかった。そういえば、明水のパソコンは優桜の自宅のものとは使い方も見え方も少し違っていて、戸惑ったことがあった。感覚はそれと近いかもしれない。
会話はわかるのに文字がちっともわからないというのも、不思議で仕方がないことのひとつだ。耳に聞こえる音は日本語ではない。でも、優桜が知っているどの外国語とも、似ているようで違っている。それなのに意味はわかる。まるで、聞いてから認識するまでの間に、誰かが翻訳してくれているように。
不思議で仕方ないのだが、言葉がわからなければたちまち困ってしまうので、優桜はあまり細かく考えないようにしている。今まで会話に不自由したことはあまりない。ガイアにあって現代にないもの、またはその逆で現代にあってガイアにないもの――例えば固有名詞――はそのままの発音になっているようで、その部分では会話はスムーズにいかない。しかし、メリールウと話が噛み合わなかったことなら何度かあるが、優桜の言語の問題というよりはメリールウの理解の問題であるように感じた。ウッドと話が噛み合わないとはあまり感じないし、彼はわからない部分を放置せず聞き返してくれるので、たぶんこの解釈で合っていると思う。
文字は日本語のようにすらすら読めるとは言えないが、それでも読めるようになった。ウッドにしごかれたのと、メリールウが助けてくれたのと、図書館で調べ物を繰り返して文字を読む機会が多かったことが原因ではないだろうか。図書館のシステムも現代と同じだ。利用カードを作って借りることが出来る。ウッドからもらった食堂の所属証を使い、メリールウに見てもらって利用カードを作った。何でこんなにも現代と似ているのに、違うんだろう。未だに電車に乗って空港に行き、飛行機に乗れば家に帰れるんじゃと思う。何で連絡をしなかったと、十分の門限破りで理不尽に怒る父の顔が、うっとおしくて仕方なかったそれが懐かしい。
ガイアというのは、このように現代の常識と、そうでないものが混じり合った『異世界』なのだ。現代と同じ感覚でも通じないことはない。だけど、唐突に、予想もしない方向から非常識が現れる。例えば、これだけ近代的なのにガイアは君主制を布いている。優桜にとって君主制というのは世界史の教科書の中の話だ。こうやって優桜と周囲の常識に誤差が出る。いっそ全部同じか、さもなければ全部違ってくれれば楽だったのかもしれない。
走り終え、優桜は大きく深呼吸すると、首にかけていたタオルで汗をぬぐった。やはり運動の後は気持ちがいい。溜っていた余計なものが消費され、体が喜んでいるような感覚がある。
これで竹刀を使えたらいうことなしなのだが、流石に竹刀は手に入らないだろうと思われた。護身用にとウッドから渡された、桜色の鞘に入った細身の両刃剣ならあるものの、真剣を振り回すのに躊躇があって今に至る。鞘に入れていれば危なくないとは思うものの、鞘があると竹刀より重いため手首を痛めそうなのだ。
呼吸が落ち着いたところで、優桜は公園の時計を確認した。今日は優桜の仕事は休みなのでそんなに急ぐ必要はない。のんびり歩いて帰宅することにする。
公園はオフィス街の中にあり、この辺りは整えられ清潔な印象がある。優桜がこれから帰ろうとしているビルは『繁華街』と呼ばれるいわゆる盛り場に近い場所になり、治安がやや悪い。繁華街には昼間でも女の子ひとりで入らない方がいいと優桜は言われている。
優桜はまだオフィス街より向こう側に行ったことがないが、この街はドーナツ型で、中央に近づくと特権階級である貴族にのみ居住を許された特別区域になり、その中心に王様の王城があるのだという。中央に集まっている理由は、内戦で外部からの襲撃があった時に庶民を犠牲にし籠城するためだと聞いた。
つい最近まで戦争の恐怖にさらされていた世界というのも、優桜がこの場所を遠く感じる一因だった。
ガイアの北部は長年において武装集団の占領下にあり、崩落の狂気に駆られた彼らは何の罪もない民衆を根こそぎ殺して回った。居住地も民族も関係ない、文字通りの無差別殺戮だったそうだ。人々はその脅威にさらされ続けた。
優桜にとっては、自分の国が戦争をしていたのは祖父の時代より以前の遠い時間の話で、作り話にすら聞こえてしまう。そんなことはないのに。自分の国が世界を敵にして戦ったことがあるのは、紛れもない史実なのに。
そんなことを考えながら、優桜は朝の街を歩いた。進むと大きな建物は少しずつ数を減らし、清潔な印象がどんどん薄くなっていく。
「……あれ?」
考え事をしながら角を曲がったせいか、気づくと優桜は見慣れない通りにいた。まだまだこの土地に不慣れな優桜は、ひとりの時に曲がり角を間違えれば簡単に迷ってしまう。
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