桜の雨が降る 3部1章6
「何でしょう」
明水は紙片を開いた。細い流麗な筆跡で、短い文言が書かれていた。
魚崎隆敏様
書斎のカラーボックスの中身は、貴方にお任せします。貴方の思うようになさってください。
私を理解してくれてありがとう。私が貴方の、いちばんの理解者であれたならと願っています。
魚崎結女
それは叔母が叔父に宛てた手紙だった。
「……カラーボックスの中身?」
内容があまりに短くて、ほとんど推論を働かせることができない。
ただ、後半からは、叔母の叔父への愛情が伝わってきた。
この二人の間にあるものは何だろう。夫婦の絆、法律事務所の共同経営者、犯罪被害者同士――優桜が「信じられなくなった」と言った隠し事。
それ以上留まる理由はなかった。明水は首を振ると優桜の部屋を出て、記憶を頼りに二階の、別の部屋のドアを開けた。
優桜の部屋より小さなその部屋には、窓際にパソコンの乗った机があり、本棚が壁際はもちろん部屋の中にも置かれてた。結女の書斎だ。職業柄、様々な資料の収集と保管が必要になる叔母が使っている部屋。
主が入院中のその部屋は、やはりというべきか散らかっていた。本棚の一角から書類を引きずり出して散乱するがままになっているのは、叔父が急遽資料を必要として、慌てて探し出し片付ける間もなく放置しているのだろうか。
「カラーボックス……」
物を踏みつけないように、明水は慎重に棚の間を歩いてカラーボックスを探したが見つからなかった。パソコンの置かれた机の下も見てみたが、ここにもなかった。
他に、カラーボックスを置けそうな場所。部屋をぐるりと見回して、明水は壁の一角がクローゼットになっていることに気づいた。
何度目かにごめんなさいと呟くと、明水はキルトのお守り袋で指先を覆い、クローゼットを開けた。仕事で使うらしい落ち着いた色合いのスーツが、何着もかかっている。
そのスーツの下に、赤と黄色のカラーボックスがふたつ置かれていた。
「あった」
口に出すと、妙に心臓の鼓動が早くなった。明水は慎重にスーツを避け、カラーボックスを取り出した。どちらもそこそこに重さがある。
そっと、ひとつめの赤いボックスを開ける。いちばん上に入っていたのは青いブレザーだった。新品には見えなかったが、そんなに着回された形跡がない。綺麗にクリーニングされ、シャツとスカートも入っている。
(どこかで見たような……)
優桜の中学時代の制服かと思ったのだが、彼女の制服ではない。職業柄、この付近の制服はだいたいわかるが一致しない。それでは、一体どこで見たのか。
少し考え、明水はインターネットで見たのだと気づいた。結女の妹が着ていた制服だ。
「ってことは、妹さんの遺品?」
明水はブレザーの下に収められた物も確認してみた。残りは全て本で、料理のレシピ本と植物の栽培方法の本が数冊と、小学校と中学校の卒業アルバム、そして、大学ノートだった。ノートを真っ先に確認してみたが、日記ではなく手書きのレシピだった。どうやら料理が好きだったらしい。
深川結女の妹は、祖母の葬儀をすっぽかしてゲームセンターに行く不良少女ではなかったのか。本はともかく、大学ノートに手書きでレシピを書き留める不良というのは、明水の中ではイメージが結びつかない。
明水は小学校の卒業アルバムをめくった。「感謝」という題で卒業生の作文が収録されている。結女の妹、絵麻は祖母についての作文を残していた。小学生の拙い筆跡ではあったが、両親が海外出張、姉が芸能界の仕事で不在だった自分のことを優しく世話してくれた祖母への感謝の気持ちが字数いっぱいに綴られている。「私はおばあちゃんが世界でいちばん大好きです」という言葉で結ばれていた。これも、現在公に残っている記録とはイメージがかけ離れている。彼女は、祖母の葬式にも出ずに遊び回っていたのではないのか?
なぜ叔母は妹を殺めたのか。明水は、芸能界で注目されたいという目的のために、不良少女で邪魔だった妹を消してしまったのかと漠然と思っていた。
それだけでも許せない行為だった。人の道に外れた行為だった。
でも、この遺品から考えられる人物は、どうも不良ではなさそうである。料理が好きで祖母に懐いている普通の女の子。調べたが、制服も改造された様子はなかった。
叔母が隠したのはこのことだと、直感的に思った。叔母の妹には、おそらく、殺されるだけの非がない。
それを殺めたのは注目されるためという、叔母の身勝手極まりないエゴで、叔父はそれを何らかの形で知っていて、優桜には隠していて――。
そして、隠し事は最悪のタイミングで露呈された。
明水はぎゅっと口を結んだ。優桜を思うと不憫で仕方なかった。何も悪くないのに、両親のせいで追い詰められてしまった可哀想な従妹。
カラーボックスの中身はそれで全部で、手がかりになるようなものは見つからなかった。もう調べるのは止めようかとも思った。これだけ揃えば充分ではないか。
けれど、それでも明水はもうひとつの黄色いカラーボックスに手を伸ばした。
蓋を開けると、真っ先に目についたのは青い石のペンダントだった。優桜のお守り袋に入っていた物と、よく似ている。それが複数あった。
「何、これ」
数えてみると、九本あった。どれも同じ青い石がついたペンダントだ。
商売でもやっていたのだろうか。
ペンダントの下に入っていたのは、同規格の厚手の冊子だった。十冊近くある。番号と日付が振ってある。いちばん新しいものを開くと、それはさっきから明水が探し求めていた日記だった。五年単位の当用日記。
いちばん新しい記述は、二十四年前の四月十一日だった。それは新聞記事にあった、深川結女の祖母が亡くなった日の前の日だ。
先にいきます 絵麻ちゃん 結女ちゃん ごめんなさい
記述はたったこれだけだった。
「先にいきます?」
残された日記の量を計算すれば、この日記の主は結女の祖母で間違いないと思われた。これは彼女の遺品なのだ。
では、この日記があったのに、どうして結女の祖母の死因が新聞で変死となっていたのだろう? 明らかに自殺ではないか。
明水は日記のページを繰った。ざっと見た限りではあまり書きこまれてはおらず白紙が多い。気になったのは、時折明水では読めない文字が混ざっていることだった。英語のようにも見えたが、英語ではない。その文字は日付を遡るにつれ多くなり、最後にはその文字だけになる。
「何なんですか、一体」
奇妙な予感がした。決して戻れない場所に連れて行かれるような、そんな感覚。
『ここじゃない別の世界に行っちゃいたい……』
ふいに思い出した従妹の言葉に、明水の心臓が冷えた。
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