絵麻の中の悪寒は、今では両腕で自分を抱かないとこらえきれないほどに強
まっていた。
「平和姫って……」
「そう。アンタのこと」
パンドラはにこりと笑うと、絵麻の顔をのぞきこんだ。
赫い瞳が、全てを見透かすように光る。
美しく整った容貌はどこか姉、結女と似ていて……絵麻の震えを強めた。
(怖い……)
その時になって、眠っていた本能がやっと目を覚ました。
(逃げなくちゃ)
絵麻はパンドラの指先にかかったままのペンダントをもぎとった。
「?!」
そのまま背後に駆け出そうとするのだが。
「……行かせないって、言ったでしょ」
冷涼な声が響いた、次の瞬間。
(え?)
天地が逆さまになるような感覚がして、絵麻の体は冷たい床に叩きつけられ
ていた。
「痛っ」
「何でって顔してるわね」
パンドラは笑うと、絵麻の顔をのぞきこんだ。
「アンタにも痛みがあったんだ」
「?」
パンドラは口元に凄絶な笑みを浮かべて。
「お姉さんに殺されたんでしょう?」
さらりと、絵麻にとっての禁忌を口にした。
「!」
押さえていたのに、体ががくがくと震え始める。
「首絞めか。じわじわ窒息していくのはどんな感じがした?
しかも、アンタをそんな目にあわせたのはいつか愛してもらえると信じてい
たお姉さんなんだよね」
「……なんで……」
絵麻は真っ青な顔で呟いた。
手の中のペンダントを握る手に、力がこもる。
「なんで、あなたが知ってるの……?」
「さあ? 考えてご覧なさいな。そのための頭でしょ?」
パンドラはアハハと笑うと。
「怖かったよね。自分のお姉さんが急に変貌して……つらかったよね。苦しかっ
たよね」
猫なで声で、絵麻をあの夜の恐怖へといざなった。
「……!」
よみがえる恐怖感。
絵麻はぎゅっとペンダントを握りしめると、指をくんだ。
(ダメ……思い出しちゃダメ……!!)
必死に恐怖を振り払おうとする。
こんなところで恐怖にとらわれたら。パニック状態になったら。
絶対に元の場所には戻れない。絵麻の中の何かが警告していた。
「……あったかもしれない」
震える喉を叱咤して、絵麻は声をしぼりだした。
「は?」
「お姉さんにも、事情、あったのかもしれない」
唯美のように。
シエルのように。
今まで見てきた仲間と同じような事情が、姉にもあったのかもしれない……。
「ハハ、アハハハハ……!」
そんな絵麻の悲痛な思いを、パンドラは高笑いで打ち砕いた。
「他人の関係を疑似体験してまで慣らしたのに。それでもアンタはまだ姉をお
それている」
「ちが……」
「それとも、他人の甘い関係を信じたの? 甘いつながりが自分たちにもある
と信じたの?」
「違う!!」
絵麻は叫んでいた。
「そんなんじゃない! 絶対違う!!
わたしは、お姉さんを信じてる! みんなのこと、信じてる!!
人は傷つけあいたいなんて本当は思ってなんかいない!」
「……あの女と同じことを言うのね」
ふいに低い声で、パンドラが凄んだ。
「あの女?」
「平和姫……平和姫が」
低い呟きの後で、パンドラは絶叫した。
「平和姫がまた私の邪魔をする!」
「さっきから、平和姫平和姫って! わたしは、違う!! わたしは、あんたに
恨まれる覚えはない。平和姫のじゃない!!」
絵麻も叫び返す。
声の反響が無重力の空間にこだましたところで、ふいにパンドラが高笑いし
た。
「……アンタは、平和姫よ」
耳にまとわりつくような、甲高いソプラノ。
「平和を大義名分にした、権力者たちの雌犬!
それが『平和姫』。一部の連中が欲しいままにした世界を守ろうとした悪魔
よ!!」
パンドラは壊れたように笑うと、呆然とする絵麻に躍りかかってその体を黒
い床に押し倒した。
「殺してやるッ!!」
そのまま、ぐいぐいと首を押さえ付ける。
「いやあっ!!」
反射的に逃れようとした絵麻だったが、パンドラの力は想像を絶するほど強
く、身動きが取れない。
「殺してやる……ボロボロの廃人にして殺してやる……」
パンドラは病んだ笑みで呟くと、胸飾りになっていた赤い石を手に取った。
そこに、闇が集中していく。
信じられないほど重たくて暗い、一片の光も入り込まない闇。
(あんなのに飲まれたら……)
絵麻は身をよじって逃れようとしたのだが、パンドラの力は片手でも十分絵
麻を冷たい床に釘付けにしている。
「死ぬ前にたっぷりと苦痛を味わいなさい。五月闇!」
言って、パンドラはその闇の塊を絵麻の胸に押し込んだ。
「いやあああああっっ!!」
絵麻は悲鳴をあげた。
闇が、体内で醜く蠢きはじめる。
体の中を太いウジムシが這いずり回る感触。
べちゃべちゃと音をたてて、肉を食い荒らされる感触。
骨だけになった手足が外気にさらされ、ぼろぼろと崩れていく感触。
「や……めて……やめてえっ!!」
悲鳴をあげて床の上をのたうち回る絵麻をパンドラは高笑いでみつめていた。
「アハハハハ! これだけじゃないのよ」
パチリ。パンドラの指が鳴る。
「……?」
ふいに体から一切の苦痛が消え、絵麻は呆然と目を開けた。
その先に、唇を歪めて笑む姉の姿がある。
見慣れた、氷の女王の美しさ。
「お姉さん……?」
「これ、返して欲しかったのよね」
記憶にあるのとまったく同じ声と仕草で、結女は絵麻の首を絞めた。
「はい、返してあげる」
「……?!」
次の瞬間、鎖が首にきりきりと食い込んできた。
「いや……いやあっ!!」
逃れようとするのだが、あの夜と同じで恐怖に縛られた体は動いてくれない。
(どうして……)
みるみるうちに呼吸ができなくなる。
(どうして……わたし、繰り返してるの……)
必死に伸ばした指先が、無残に払い落とされる。
視界がぼやけ、何も考えられなくなる。
(お姉さん……どう、して……)
ほどなくして、絵麻は意識を失ってしまった。
「フフ……アハハハハ」
そんな絵麻を、パンドラはさも愉快そうにみつめていた。
絵麻の横に結女の姿はない。
全ては、パンドラが能力――五月闇によってみせた幻覚だったのだ。
「心の闇を現実化させる術……人は必ず心に闇の部分を持つ。触れられたくな
い部分を持つ」
動かなくなった絵麻の体をつま先で蹴って、パンドラは残忍に笑った。
「今頃、自分の心の中で最期の、最も苦痛な夢を見ていることでしょう……」
夢の内容を想像して、パンドラはまた高笑いした。
「邪魔はしないわよ。平和姫サン?」