それから3日経って。 リビングでリョウは膝に通信販売のカタログを広げていた。 横では信也が通信関係の新聞を読んでいる。 続きになった台所からは、パタン、パタンという、クッキーの生地をこねる 調子のいい音が聞こえてきていた。 絵麻がクッキーを焼いているのだ。 絵麻は第8寮の仕事に慣れてから、おやつや仕事終わりで夕食に間があると きなどに簡単に食べられるようにと、よくクッキーを焼いて缶に入れてくれて いた。 現にリョウの目の前のテーブルにもひらべったい赤い缶が乗っているし、台 所には黄色の缶がある。ふたを開けると、お菓子のいい匂いがした。 絵麻は丸1日部屋にこもったあと、仕事に復帰してきた。 「大丈夫?」ときくと、「大丈夫だよぉ」と言って笑う。リクエストした料 理は完璧に作ってくれる。山ほどの掃除や洗濯だってお手のもの。 でかける時は見送ってくれるし、帰ってくれば「おかえり」の挨拶をくれる。 それはいつもの絵麻だった。 けれど、ふとした拍子に表情に陰りが走る。自分を認め切れていないような、 儚い幻のような。そんな危うさが今の彼女にはあった。 「もう大丈夫なの?」 朝食の時、リョウはそうきいたのだが。 「大丈夫だよ。わたしは元気元気」 ガッツポーズまでつけてそう返したくせに、見送りに出て来てくれた時の顔 はやはり儚げで、消えてしまいそうだった。 「絵麻、本当に大丈夫なのかしら……」 横の幼なじみにだけ聞こえるように、リョウは小さく呟く。 信也の声も同じような低さで。 「俺にははじめて会った頃より危なっかしく見えるけど」 「よね……」 「医者のお前からみてどうなんだよ?」 リョウは通販雑誌を閉じて、信也に向き直った。 ついでにクッキーをぱくりと口に放り込む。 いつもと同じプレーンクッキーのはずなのに、すかすかの味がした。 「情緒不安定っていうの? すごく透き通ってしまった感じがする。自分では 元気だって言い張ってるけど」 「カラ元気だよな……どっからどうみても」 信也が息をついた。 「唯美が終わって、シエルが終わったと思ったらまた絵麻か。問題だらけだな」 その時。 「何か言った?」 微笑を浮かべた絵麻が、台所から顔を出した。 「え?」 「あ、い、う、えーっと……」 必死にごまかそうとする信也を肘でこずいてから、リョウは笑顔を作って絵 麻に向けた。 「絵麻、クッキー焼いてるの?」 「うん。孤児院に届けようと思って。ほら」 絵麻は手にもっていた袋を2人に示した。 もう焼き上がっていたらしい。そういえば、クッキーの香ばしい匂いが部屋 に充満している。 「これからでかけてくるね。夕飯作る時間には戻るから」 「1人で大丈夫?」 「だーいじょーぶ! わたしは元気だから」 絵麻は笑顔をみせると、踵を返して玄関の方へとかけて行った。 ほどなく、扉の閉まる音がする。 「……」 「もう大丈夫なのかな? 手際が戻ってる」 絵麻は落ち込むのが早いが、立ち直るのも案外に早い。 リョウはそう思おうとしたのだが、信也がそれを否定した。 「いや……まだだろう」 「え?」 信也は無言で台所に行くと、何かをみて「やっぱり」と呟いた。 「どうしたの?」 リョウもぱたぱたと後をついていく。 信也はリョウに視線を向けて。 「匂いでわからなかったのか?」 「匂い?」 台所にはクッキーの甘い匂いが充満している。 換気扇を回していないのだろうか? 甘くて香ばしい。そう、よーく焼けた……。 「まさか?!」 リョウの目が流し台の中に向く。 そこには焦げて炭になったクッキーが、鉄板ごと水につけられていた。 「絵麻が料理に失敗するなんて……そうとう重症だぞ」 幼なじみの判断に、リョウは頷くしかなかった。