そんな日々が1週間くらい続いた。 人に手伝ってもらわないと何もできない日々だ。 絵麻は次第に苛立つようになった。 姉から従順さを徹底的にたたき込まれた絵麻だったが、ここにいる人達は自 分にできる限りの自由を与えてくれる。 自由に、自分の意志で動いてみたいという気持ちがふくらむのは抑圧されて きた絵麻にとっては当然だったかもしれない。 条件さえ満たせば自分の思うように動ける。それなのに、自分はその条件を 満たすことができない。 絵麻の苛立ちはこの変わった世界にではなく、自分自身に向けられていた。 「これ、読めるようになった?」 今日の講師(?)は信也である。 彼が示したのは少し長い文章だった。 MISOE GOqIKHO VO UKAL; KOFUEMAKO XOqIYK MU LAOBE. この書き出しではじまる文章が延々5ページほど続くのである。 別に信也が意地悪している訳ではない。 彼が持っているのは通信の参考書。 信也は有線通信(翔たちが使っていた機械)の技師をしているのだという。 実直で即決。悪い人ではないのだが、翔ほど気が回らないために自分にとっ て身近な、絵麻にとって未知の素材を教科書に選んでしまっているのだ。 ちなみに、これは2度目の出題である。 確か通信に関する条約文なのだ。1回目は専門用語の多発に歯が立たず(当 たり前か)、50音表を持ってしても難解だった。 その時はあまりに時間がかかっていることに気づいた翔が問題の難度の高さ を指摘して事なきを得たが、信也は忘れてしまったようだ。 「……」 絵麻は泣きそうになったのだが、何も言わなかった。 1週間経っても解けない自分が悪い。 少し長い文章が出てくるとわからなくなる自分が悪い。 出題を失敗する信也もちょっとは悪いかもしんないな……。 絵麻は責任転嫁する案を思いついたのだが、あわてて打ち消した。 信也には少し忘れっぽい一面がある。だから、仕方がない。 絵麻が殊勝にも問題に取り組もうとした時だった。 「前は表を使ってたから、今日は表はなしでやってみて」 「!」 (なんでこういう部分だけ覚えてるの?!) 絵麻の心の叫びが聞こえるはずもなく。 「はい、頑張ってな」 信也は自分の持っていた別の雑誌(表紙からみると娯楽雑誌らしい)に目を 落とした。 「……」 絵麻は文章に目を通しはじめたが、やはり難度が高い。 1度読んでいるのだが、他にもたくさんのことをやっていたせいで細かくは 覚えていなかった。 (Mはタ行音、Iはウ段音だっけ? それともM1音でツだったっけ?) 頭の中で文字がぐるぐるまわる。 子供がひらがな習うみたいな訓練、ずっとずーっとしてたのにな……。 そう。子供みたいに。 16歳なのに。自分の面倒は自分で見られる年齢なのに。 もっとしっかりしなきゃ……。 外に出ることができず、人に触れるのも苦手で。料理や掃除をしている時だ け心が安らぐなんて……ヘンだよ。 もっと、自分でできるよね? もっと役に立たなきゃ。ここに置いてもらってるんだから……。 ふいに視界に入ったオレンジの光に、絵麻は顔をあげた。 「夕方……」 夕ごはんの時間。 そう考えたら、なぜかほっとしてしまった。 その後で、絵麻は今日の買い物を済ませていないことに気がついた。 別に毎日買い物に行く必要はない。材料の組み合わせを上手くやれば、3日 置きや週1のペースにだって買い物の回数は減らせる。 最も、勝手が少し異なるこの世界では思うようにはいかず、実際は2日に1 回は買い物に行くことになっていた。通過単位の違い克服の実践にいいという 翔の考えがあったのかもしれない。 考え過ぎだろうか? 絵麻は翔の優しい目を思い出して、息をついた。 もうちょっと、役に立ちたいよ。 自分を必要としてくれる人。自分のすることで喜んでくれる人。 でも、彼が必要としているのは『自分』ではなく『石』なのではないの……? 「絵麻?」 ふと気づくと、信也がこっちを見ていた。さっきのため息が聞こえたらしい。 風変わりなこげ茶色の瞳が、じっと見つめている。 「あ……」 絵麻ははじかれたように立ち上がった。 「わたし、買い物してくる」 「え? 誰かといかないとできないだろ?」 その言葉が、これまでの鬱屈に火をつけた。 「1人で行ってくる!」 絵麻はそのまま、テーブルに置いてあった練習用のお金が入ったサイフをつ かむと、勢いよく建物から飛び出して行った。 戸口のところでちょうど帰って来た所らしいリリィとすれ違ったが、気にし なかった。 「1人って、ちょっと待てよ。絵麻? 絵麻!」 信也の声だけが追いかけて来た。