翔は、ユキの暮らすPCの別の寮に転がり込む形で住居を確保していた。 そのせいで、周囲からはあることないことを言われていたが、気になら なかった。 もう何も感じなかった。 元々壊れているのは知っていたけど、本格的にどこかが破損してしまっ たのかもしれない。 「じゃあ翔、あたし、美容院に行ってくるね」 「行ってらっしゃい」 「綺麗になって帰ってくるから、待っててね」 「待ってるよ」 こんな会話に意味がないこともわかっている。 ユキの芝居だ。自分は幸せだと思いたいユキの作り芝居。翔はその役者。 実際、ユキはこの生活が作り事だと知っている。たまに目が覚めたよう になって、翔を罵倒するのだ。 ユキのいなくなった部屋で、翔はごろんとベッドに寝転がった。 手で目を覆う。火傷痕の酷い手。 翔は全身に残った傷痕を、特殊な保護膜で覆って隠していた。 ただ、手の傷だけは隠せなかった。手に保護膜をはると、原因不明の痛 みが襲うのだ。 それは自分の罪の証のように思えた。 自分の手は汚れているのだと。それを忘れさせないためだと。 自分が咎人だというのはわかっている。ユキが知っているよりもっと重 い罪を自分は犯してきた。 それなのに、どうしようもなく普通の生活に憧れた。普通の人のように 暮らし、幸せになりたいと思ってしまった。 そうして、絵麻と出会った。 最初は研究のためといった部分が確かにあったけれど、いつの間にか、 どんな時も一生懸命な彼女にひかれた。彼女の作る暖かい場所に焦がれた。 そんな資格はなかったのに。 玄関でチャイムの音がして、翔の意識は現実に引き戻された。 返事をしてから玄関を開けると、そこにシエルが立っていた。 「……何で」 「ここ、オレの配達区分」 シエルは完全に怒った顔をしていた。 「何住所変更届けなんか出してんだよ。皆待ってんだぞ?!」 「ご用件は」 翔は意図して冷たい声を出した。 「話聞けよ」 「ご用件は?」 しばらく玄関先で睨み合ったのだが、結局シエルが折れた。 「郵便」 カバンから白い封筒を取り出すと、翔に突き付ける。 それは翔が見慣れたものだった。 「ああ……」 受け取って、その場で破り捨てようとする。 「待った。それ受け取りのサインしてくれないと困る。相手が要求してる から」 「……」 翔は封筒を破ろうとした手を止めた。 この封筒が受け取り確認で来たのははじめてだった。 「届いてない事にできない?」 「ふざけんなよ。郵便課の信用問題だっての」 シエルにそう言われ、翔は渋々ペンを取ってきてサインした。 「それじゃ」 シエルが口を開くより先に、翔は扉を閉めてしまう。 そのまま、扉に寄りかかるようにしてずるずると崩れ落ちた。 視線はじっと封筒を見つめている。 「利用価値だけは認めてるってことか……」 呟いた瞬間、吐き気がこみ上げた。 「!」 たまらず手洗いに駆け込む。胃の中がカラになっても嘔吐はおさまらな くて、部屋に戻った時には時間がだいぶ経っていた。 この汚物ですら、彼女は研究に使うのだろうか。 『翔、大丈夫?!』 『寝ててね。今、何か消化のいい物作って持っていくから』 唐突に、絵麻の声が鮮やかに浮かんだ。 「……」 幻聴だ。翔が作り出した、ありえない音。絵麻がここにいるわけがない。 自分で拒んだのだから。 「絵麻……」 目を閉じて、握った手を額にあてる。 救いを求める呼び声は掠れて、誰にも届かなかった。