桜の雨が降る 5部4章6

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 ひとつの凶悪事件がつまびらかにされても、一組の兄妹が繁華街を去っても、朝は来て一日は過ぎ去っていく。優桜は今日も洗い場で食器を洗っていたし、メリールウは盛りつけに忙しい。ひとつ上の階の事務所ではウッドが仕事をしているはずだ。
 その日、メリールウはいつものディスコでイベントがあるから夕飯はそっちで食べると行って出かけ、ウッドも仕事の会合に出席するからと早々に事務所を戸締まりしていた。なので、優桜はひとり、冷蔵庫の中身で夕飯を適当にすませた。それができるようになっていた自分にびっくりした。
 早々に風呂をすませ、図書館から借りた本を読んでいると急にどんどんと扉が叩かれて、優桜は文字通り飛び上がった。こんな遅くに誰が来るというのだろう。
「ユーサ、いるか? 開けてくれー」
 覗き穴から確認すると、メリールウに肩を貸したサリクスが困り顔で立っていた。優桜は慌ててチェーンを外してドアを開けた。
「どうしたの?!」
「あーよかったユーサいたか。ルー、家に着いたぞ」
「やーだ、もっと踊る。サリクスと一緒に踊るー」
 サリクスの肩から下ろされたメリールウだったが、その場にずるずる崩れたものの完全に潰れる前にサリクスの脚にしがみついた。
「今日はもうおしまい。ダンスナイトじゃないし」
「やだー」
「……酔ってる、の?」
 近づかなくても自己主張している酒の気配に、優桜は顔をしかめた。
「普段こんなに出来上がることないんだけどな。ユーサ、とりあえず水一杯もらっていい?」
「うん」
 優桜がコップに水をくんでいる間に、サリクスがメリールウをダイニングテーブルの椅子に座らせていた。メリールウはたちまちテーブルにつっぷした。
「ルー。ほらお水。飲まないと明日しんどいぞ」
「やーだ。明日しんどくってもまだサリクスといるー」
「俺仕事なんだけど。ユーサじゃダメなの?」
「ユーサもウッドも一緒だけど、サリクスも一緒。一緒に山に行くのよ」
 山に行くのよ、の部分は「ひゃまひいふゅのよ」と聞こえたので、もしかしたら違うことを言ったのかもしれない。未だかつてないほどメリールウが正体をなくしているのがはっきりわかって、優桜はひきつった。
「サリクス、これってメリールウ大丈夫?」
「もう少ししたらマシになるんじゃないかな。ルーって潰れるとこんなだから」
 サリクスは平然とメリールウに水を飲ませていた。
「そうなの?」
「凄くハイテンションになっていつもに増して笑い上戸化して、普段はそこで終わるんだけどな。前も一回こうなったけど、三十分くらいで歩けるようになったし」
「三十分このままなんだ……」
 自分一人でなんとかできるだろうか。悪いことに今日は事務所も早じまいされていて、二階に下りていけばウッドがいるいつもとは違う。ひきつった顔をしている優桜に、サリクスは苦笑いすると椅子を引いて腰を下ろした。
「仕方ない、おにーさんがここで三十分ほど時間を潰してあげよう」
「いいの?」
「今日はもう帰って寝るだけだし。あ、泊めてくれるんなら移動がなくて大助かり」
「それは駄目」
「言うと思った」
 サリクスはいつものように笑って、肩を落としてみせた。
「でも何でいきなりこんなに飲んだかな。ユーサ、最近ルーが疲れてるとか無理してるとか、そういうのなかったか?」
 多分ないと思うと、優桜は首を振った。
「メリールウっていつも元気だし」
「ホント、どこからその元気を出してるんだろうな。自分の人生は相当のハードモードのくせに、人の心配ばっかりだ。見てるこっちの寿命が縮むよ」
 自分の肩にしなだれかかっているメリールウを起こそうとサリクスが手を回したが、メリールウはいやがるでもなくその手に甘えて頬ずりまでしていた。そのままずるずる崩れてきたので、サリクスはテーブルに伏せられるようにメリールウの体の位置を調整してやっていた。
「……本当に本気なの?」
「ん? 何が?」
「メリールウのこと」
 サリクスは一瞬絶句して、まじまじと優桜の顔を見て、それから笑い出した。
「本気じゃなきゃ、しんどい就活して会社に頭下げて回るなんてしないっての」
 そのままけらけらと笑いはじめたサリクスを見て、優桜は彼も酔っぱらっているのかと思って椅子から腰を浮かせたが、優桜の心配に気づいたのかサリクスが先に「酔ってないよ」と言った。
「……嘘でしょ」
「いやマジだってだからユーサちゃんそんな目で俺を見ないで。そっちのケはないから」
「じゃなんでそんなに笑ってるの」
「そりゃ秘めに秘めてきた本心を隣にいる愛しい人じゃなくてそのツレに暴露してるって状況がおかしいからに決まってんでしょ」
 確かにそうかもしれなかったが。
「別に言っちゃえばいいんじゃないの?」
「言ってるけどぜんっぜん伝わってないんだもん。真面目な態度のひとつやふたつ取るさ」
「メリールウと付き合うために仕事に就こうとしたの?」
 サリクスは頷いた。
「今、将来性のある仕事してるってんならいいんだけど、そうじゃないし。このままだと稼ぎが少なくなった時にルーを働かせることになっちまうから。それはしたくないし、そんな状態で俺に人生預けてくださいとか言う奴についていける?」
 優桜は答えられなかった。すやすやと寝ているメリールウを見て、サリクスが何度目かの苦笑いをする。
「俺がこーんなに真剣に考えてても、ルーの奴はまったく気づいてないんだもんな。まあカンタンに落とせる相手ならここまで本気にはなってないだろうけど」
 優桜にはメリールウの気持ちはわからなかった。自分の感情を全く隠さないメリールウなのに、そこだけはどう考えてもわからないのだ。
 大好きだというのは、こんなにもわかるのに。
「普通に素直に言えばいいだけじゃないの? 愛してる、仕事決まったら結婚してください、って」
 それでいいのではないだろうか。メリールウは絶対に喜ぶはずだ。
「普通に素直に、ね」
 サリクスはただ苦く笑った。
「大人になるといろいろ難しいんだ」
「何が?」
「わからない? やっぱりユーサはまだまだ子供だよ」
 優桜は少し考えてみた。
 まだ遊び足りなくて、メリールウに告白しても今までのように他の女の子とも遊びたいということだろうか? それなら結婚にはならない。愛情はあるけど生活していけない、なら少し似ているが、サリクスもメリールウも正規ではないかもしれないが仕事をしている。メリールウは十八歳だから現代の法律だとしても結婚に問題はない。
 それなのに、上手く行かないのは? 素直に言えない理由は?
(……そっか)
 ひとつだけ思い当たって、優桜は大きく息を吐いた。
 人を好きという気持ちは、シロップのように甘いものだと思ってきた。優桜は明水のことを考えると、いつでもふわふわと雲に乗ったように楽しかった。
 だけど、実際には甘いだけではない。自分がどれだけ頑張っても明水の役に立つことはできないんじゃないかと考えると、それはただただ苦いばかりだ。大好きな明水のことなのに。
「ユーサ。お前はこんな大人にはなるなよ」
 笑いながら言われたその言葉が、優桜にはひどく重く聞こえた。
「で、三十分経ったわけだけど。ルー、そろそろ大丈夫か?」
 サリクスがメリールウの肩を揺すったが、メリールウはうーんと唸って反対側に顔を向けてしまった。まごうことなく眠っている。
 サリクスは残念そうに肩を落とした。
「これで実は寝たフリで俺の気持ち届いてて、あたしも愛してるよとか言ってくれちゃうストーリーはないのね」
「なさそうだねえ……」
 優桜も実はちょっと想像したのだが、どう見てもメリールウは酔いつぶれて眠っているのだった。これが演技なら賞が取れる。
「このまま朝まで眠りこけるコースだな。どうしよう、ルーが寝てるのってロフトなんだよな?」
「あ、だったらあたしのベッドに寝かせるよ。あたしが今日だけロフトで寝たらいいし」
 悪いなとサリクスは言うと、メリールウを椅子から自分の肩に担ぎ上げた。
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