桜の雨が降る 5部4章7

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【転章】
「ふわー。頭がぐるぐるだー」
 洗面所で何度目かに顔を洗ってきたメリールウが、厄介な虫でも張りついているような顔でこめかみのあたりをタオルでこすっている。
「あれだけ飲んだら当然!」
 普段は優桜より早く起き出すメリールウは、優桜が起こすまでベッドにもぐりこんでいた。何度か起こすと、目を擦りながらようよう這い出してきて、目が回ると言って泣いていた。昨夜のことを聞いてみたが、サリクスが送ってくれたことさえ覚えていなかった。
「仕事、大丈夫? 行ける?」
「もうちょっとでお祖母ちゃんのごはんが効いてくるからへーき」
 メリールウはそういうと、ふわあと大きな欠伸をした。優桜が休みならシフトを変われるのだが、生憎と今日は優桜も出勤だ。ぎりぎりまで出なくても大丈夫だから、一階が職場だというのはつくづく便利だと思う。学校ならこうはいかない。メリールウがシャワーを浴びる時間もあった。
 そうして二人は食堂で働き、メリールウは何度か皿の場所を間違えて叱られていたが、その程度で切り抜けられたのはむしろラッキーだったろう。最後にゴミを出す当番だった二人がロッカーに戻ると、先に戻っていた従業員達がクラウスを囲んで騒いでいた。
「あれ、クラウスがいるよ。今日はお給料日?」
 クラウスは経理を担当しているため、食堂従業員の給料は基本的には彼から手渡しされる。
「違う違う」
 メリールウの声に振り向いた女性の従業員が振り返って笑う。そばかすと先の反った鼻が特徴的なジェーンは、優桜たちと仲が良い。
「クラウス、結婚が決まったのよ」
 そう言ったのは騒ぎの輪には加わっていなかったリサだ。もうすっかり腕の傷は治り、今日も働いていた。
「そうなの?」
「先週お見合いしてたお話が無事にまとまったんですって。相手は大貴族の親戚筋だったことがある名門だとか」
「え?!」
 優桜はメリールウと顔を見合わせた。見合いをしていたのはウッドではなかったか?
 その日、二人は事務所の終業時刻を待ってウッドのところに押しかけた。
「え? いつオレの見合いって言った?」
 彼の答えはこうだった。
「え、だってウッド、結婚しようかって言ったよ?!」
「政略結婚は考えてるけど、それがこの前の見合いだとは言ってないぞ」
 言われてみればそんな気がした。
「ぶー。ウッドってばヤヤコシイ。結婚するんだと思ってた」
 ふくれっ面になりつつ、それでもメリールウは嬉しそうだった。手を伸ばしてウッドに抱きつこうとする。ウッドはそれを器用に避けてしまったが。
「結婚、しないの?」
「オレが結婚すると相手を呪い殺すからな」
 ウッドは冗談めかして笑った。またそんなこという、とメリールウが言うのもいつも通りだ。
 どうやら、まだいつもの日常は続くらしい。
 こんな日々がいつまで続くのか優桜にはわからない。短いのか、長いのか。その終わりは優桜の帰還なのだろうか。それとも別の何かなのだろうか。
 元の世界に戻りたいとあんなに願っていたはずなのに。今はこのガイアの日常が一秒でも長く続いて欲しいと思っている。
 矛盾した願いを胸に抱いて、優桜は息をついた。
 思いとは裏腹に笑みを浮かべて。同じように矛盾した願いを抱く人物が、すぐ側にいることも知らずに。
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