桜の雨が降る 5部4章4
優桜の視線の先で、マイケルがふらふらと立ち上がった。鞄をぎゅっと抱きしめ、表通りの方へ歩いて行こうとしていた。そこで優桜にも決心がついた。
「……サリクス、ごめんなさい」
マイケルが角を曲がるのを確認してから、優桜は逆方向に向かって駆けだした。
さっき、メリールウはサリクスが住んでいる場所のことを教えてくれた。優桜は駆けどおしに駆けて、メリールウの話と一致するアパートに辿り着いた。一階の表札を一軒一軒確かめる。フォートという綴りを確認できた二軒目で、優桜は扉をがむしゃらに叩いた。安普請の建物らしく、がしゃがしゃと耳障りな音がした。
「サリクス! サリクス、いる?!」
すぐに扉が開いて、サリクスが顔を出した。白いシャツと紺のズボン姿だ。普段はだらしなく崩しているネクタイも、今日はきっちりと締めていた。
「ユーサ?! お前、人の家でいきなり何騒いでるんだよ。近所迷惑だろ?」
「よかった……サリクスいた……」
優桜は大きく息を吐いた。緊張の糸が切れ、走り詰めだったこともあってたちまち呼吸が荒くなる。
「おいおいどうしたんだよ。俺これから出かけるんだぞ?」
膝から崩れ落ちた優桜を半ば抱えるようにして、サリクスは自宅に運び入れた。メリールウの家のようにダイニングはなくて、廊下のような狭く細い通路の片側に小さな台所があるだけだ。その奥の扉を開けると居室になっていて、大きめのベッドとガラスのローテーブルがあった。ローテーブルには普段ウッドが着ているような、普通のデザインの紺色のスーツが二つにたたまれて乗っていた。
サリクスは調えられたベッドに優桜を座らせると、水の入ったグラスを持ってきてくれた。
「ルーに何かあったのか?」
優桜は首を振った。水を飲んで、大きく深呼吸してから口を開いた。
「サリクス。助けて欲しいの」
彼は何も言わなかった。いつもの茶化す口調も出かける邪魔をされた文句もなく、ただ緑色の目で話の先をうながしていた。
「マイケルが犯罪者になっちゃう。取立の人。薬……」
「……マイク?!」
サリクスはみるみる表情を変えると、優桜の肩を揺さぶった。優桜も可能な限り急いで口を動かして、さっき聞いた話を吐き出した。
話を聞き終わったサリクスは、苦々しげな顔で肩を落とした。
「何バカやってんだアイツは」
「どうしていいかわかんなくて、サリクスだったら話が出来るって思って」
「確かにお前より話はできるけどさ。できるけど……」
難しい話に決まっている。優桜は身が縮む思いだった。
「この時間のないときに無理難題を……まさかルーにやらせるわけにもいかんし。ルーはその時一緒にいなかった?」
「あっ。メリールウ」
メリールウにそこで待っていてねと言われたのに、何も言わずにこちらに来てしまった。今頃探しているかもしれない。
それをサリクスに告げると、彼は拳でべしりと優桜の頭を叩いた。
「お前が騒ぎを増やしてどうすんの。もしかして、この期に及んでいつもからかってる仕返しとか企んでる?」
「そんなわけないでしょ!」
優桜は頭に乗ったままだった拳を払いのけた。知らず知らずのうちに瞳が潤んでくる。
「あーわかったわかった。ユーサはルーんとこ戻っといて。ルーが本気で騒いだらユーサなんか十人束になっても相手にならん騒ぎになるんだから」
サリクスは強引に優桜を立たせると、押し出すようにして玄関まで連れて行った。
「サリクス、マイクは? 他の人たちは大丈夫?」
サリクスは一瞬、何とも言えないような表情で押し黙った。
「サリクス?」
「……大丈夫だよ」
サリクスはそれだけ言うと、優桜をドアの外に押し出した。
*****
優桜を追い出した後、サリクスは真っ先に時計を確認した。
何件か簡単な電話をかけるだけなら、面接には間に合うだろう。店の同僚と、話を通しやすい上役。マイケルと仲が良い後輩という手もある。電話の相手は何人か候補が挙がる。
なんだかんだで可愛い後輩であり、仲の良い友人が犯罪者になるかならないかの瀬戸際だ。普通なら何もかもかなぐり捨てて止めに走るのだろう。
けれど――。
サリクスはもう一度時計を見上げた。
自分たちの商売は、常に法に触れるか触れないかぎりぎりの場所で成り立っている。国府警察の世話にならないのは店の上役が裏で同じような仲間と結託し、のらりくらりと法の目をかいくぐる策を弄しているからだ。世間一般の赤信号はとっくに踏み越えているのかもしれない。
自分たちにとっては、優桜が慌てるような危ない場面ではないのかもしれなかった。
マイケルはこの稼業を渡って行くには、拗ね気味で人のつながりを軽んじる傾向がある。今助けられたとしても、いずれ訪れるやっていけなくなる時に身を落とすのかもしれない。そうなる可能性は充分にある。
だったら、サリクスが今自分の都合を優先したとしても構わないのではないだろうか。誰だって自分が生きていくのに精一杯なのだ。サリクスだってこの機会をふいにすれば、もう表に戻れる幸運には恵まれないかもしれない。メリールウに伝えたい気持ちも、行き場を失うのかもしれなかった。
ふっと、メリールウの顔が頭の中に浮かんだ。
彼女は今の自分をどう思うのだろう。今頃はおそらく必死に繁華街を走り回り、手当たり次第に友人を探しているであろうサリクスの思い人。
きっと、彼女は悲しむ。事件に巻き込まれている人の身を案じ、あのバカな後輩を憐れみ、そして――サリクスが我が身を優先することを嘆く。
「本当、ヒドい女だぜ。なあ? ワンダラー・シウダーファレス・ボニトセレソ・ジョ・メリールウ」
彼女はいつもの遊び人のサリクスのことが好きだというくせに、遊び人だからサリクスの言っていることを本気にしないというのだ。だったらどうしろと言うんだ。茶化して笑っているしかないじゃないか。真っ当に就職しようと頑張っていればこの事態だ。
「俺って、前世の行いがよっぽど悪かったんだな」
時計を確認して、サリクスは珍しい溜息をついた。
そして、きっちりと結んでいたネクタイをむしりとると、調えていた髪をぐしゃぐしゃに乱した。
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