桜の雨が降る 5部4章3
「あっちを真っ直ぐ行って二つ目を左! 大きなお花の看板があるとこがサリクスのお店だよっ」
二日後、優桜はメリールウと一緒に繁華街を歩いていた。平日の昼間だが、通りは派手な格好の若者で賑わい、街角ごとに店舗が違う種類の賑やかな音楽をまき散らしていた。
優桜はできることなら繁華街には一歩たりとも入りたくないのだが、いつまでもそれで済むとは限らない。だったら、少しでも慣れておいた方がいいのではないかと思ったのだ。メリールウが二日前に借りた雑誌を友人に返しに行くということで、優桜は一緒に連れて行ってもらうことにした。その友達は繁華街の中でも治安のいい通りに住んでいるから、昼間なら女の子二人でも全然問題ないとのことだったが、優桜は必要以上に剣を確かめつつ歩いていた。ウッドから貰った、桜色の鞘に入った剣。
「お店、こんなところにあったんだね」
サリクスが繁華街で仕事をしていることは聞いていたが、店を見たことはなかった。
「そうそう。サリクスのおうちはお店をまーっすぐ行って、ちょっと歩いたら賭博場の看板があるから、そこを右に曲がるの。アパートの一階よ。そういえばユーサ、サリクスって今日ご飯食べるって言ってた?」
「うん。今日は面接だけどお昼で終わって仕事もシフト変わってもらったから、夜は事務所に行くって」
「そうなんだ! それじゃ、ご飯は四人分ね。がんばって作る!」
メリールウのサンダルの足がステップを踏んではしゃいだ。雑誌を抱えて、優雅にピルエットを決める。周囲を行く人が振り返るくらいに大きな動きだった。
メリールウのご機嫌はいつもと同じで、嬉しそうだが特別喜んでいるようには見えなかった。
もしサリクスが自分に本気で、そのために真っ当な仕事を探しているとメリールウが知ったら、その時はどうなるのだろう? 今までのようにはいられなくなるのだろうか。
でも、どちらにしろもう今までのようにはいられないのだ。ウッドの見合いの話だって進んでいるのだし、彼は結婚すれば夕食を家で食べるようになるだろう。奥さんになる人だって、外で女の子達と食べていると知ったらいい気持ちはしないだろうし。
手持ちぶさたになった優桜は何気なく、剣をひっくり返してみた。指を這わせてみて、そこで初めて、綺麗だった桜色の鞘に傷がついていたことに気づいた。
「あれ? いつから傷ついてたんだろ」
「キズ?」
スキップするようにして先を歩いていたメリールウが振り返る。
「ここなんだけど」
優桜は鞘の先端部分を指で示した。針くらいの細さで欠けている。触ってみなければ気づかなかったくらいのものではあるが。
「ユーサ、いつも大事に使ってるよね?」
「うん」
「でもないか。この前ガシャッて道に落とした。パルのアパートの前で」
「ああ……」
出された名前に、優桜は複雑な表情になった。彼女があの後どうなったかは知らなかった。知りたいとも、実はそんなに思えない。
「そうだ。そのあとにも地面に投げつけたんだ」
騎士と戦おうとして抜刀した時、優桜は鞘を地面に投げ落とした。そんな扱いをしていれば、どんな丈夫な鞘にだって傷がつくのはおかしいことじゃない。
「ユーサ、大事にだよ?」
「ごめんなさい」
そのあともとりとめない会話をしながら、二人は何度か路地を曲がってメリールウが雑誌を借りた相手が住んでいるアパートへ向かった。
繁華街の名にふさわしく蛍光色のライトがついた看板がたくさん並んだ通りにアパートはあった。当たり前だが、パルポネラが住んでいた閑静かつ荘厳な建物とは全くの別物で、間口が狭く奥に長いビルがこせこせと詰め込まれているせいか、まだ昼だというのに先ほどまでとうって変わって、その通りは薄暗かった。通りに面した一階は例外なくシャッターが閉まっている。法律事務所ビルと同じで一階が店舗になっているようだった。居並ぶ看板から察するに、きっと、この通りは夜の方が明るいのだろう。
「ここだよ! ここの三階」
優桜から見ると道だと区別がつかないような細い通りに入っていったメリールウが、猫の額のような昇降口を指さした。人ひとりさえ通れないんじゃと思うくらいの幅であり、しかも、かなりの急勾配だ。
「ユーサはここで待ってる?」
登ることは何とかなるかもしれないが、降りてこられる自信がない。上に行ったところで訪問先は優桜と面識のない相手だから、相手だって困惑するだろう。登った先に二人立てる広さがあるかも疑わしかったので、メリールウの申し出に優桜はありがたく甘えることにした。
「それじゃ、ちょっとだけ待っててね。ヘンなとこ入ったらダメよ?」
「うん。頼まれても行かないよ」
「よし!」
メリールウは腰に両手を当てて頷くと、すぐ笑顔になって優桜に手を振った。手すりのない階段を、もたもたしながらだったが上がっていく。足下がサンダルだと考えるとかなりの好記録なのかもしれなかった。
もう一度、鞘の先の針ほどの欠落を撫でた後で、優桜はきょろきょろと周囲を観察してみた。ガイアの街はほとんどが煉瓦造りで、海外の街のような雰囲気なのだが、ここは日本のどこにでもありそうな裏路地で、煤けたコンクリートのような材質の壁の細長いビルが立ち並んでいる。
メリールウが尋ねた先の住人は女性だ。女性がこんな立地の場所に住んでいるというのは、優桜にはにわかに信じられない話だった。比較的安全だというのも。
こんな話は現代ではほとんど聞かない。それは優桜が裕福だったことの証左であり、ほとんどの友人達もまた裕福だったということを意味した。
ガイアは不平等だらけだ。確かに貧富の差はどうしようもない。どうしようもないけど、それでもどうにかしたいから、だから『エレフセリア』は動いている。正しい方向へ。誰もが幸福に暮らせる理想の世界を打ち立てるため。
「……だから、今月の分は払っただろ?!」
急に男性が叫ぶ声がして、優桜は驚いて声のした方を見た。
細い路地のひとつに、ビルの陰に身を隠すようにしている人影があった。三人連れだろうが、二人が一人を壁に押しつけているような格好だった。
(え?!)
優桜は自分もアパートの陰に隠れるようにして、そっと首だけ伸ばして相手の様子を伺った。もし荒事に及ぶようだったら助けなければならない。
「払ったのは食品の請求だけだろ? 服代だって酒代だってまだまだ残ってるんだよ!」
「ふざけんなよ。何でそいつらが贅沢した服や酒の金までこっちが払わなきゃならないんだよ。妹はあいつらの娘じゃねえんだぞ!」
「義理の両親だろうが。両親の扶養義務は子が負うってちゃーんと国が出した法律の中に書いてあるんだよッ!」
壁に抑えつけられていた人物の頬に張り手が飛ぶ。
「……ンなこと言われても、もう店から前借りしたぶんは払っちまったし」
「ないなら稼げばいいじゃないか」
「朝も夜も休みも金策に明け暮れてるのにこれ以上どうできるってんだよ? 倍稼げるように分裂でもさせてくれんの?」
どうやら、借金の取り立てのようだった。優桜の位置からは取り立てられている側は見えなかったが、声から察するに年若い男性のようだった。
「ハッ。そんなバケモノみたいなことしなくても倍以上に稼がせてやろうじゃないか」
二人いる取立屋のうち、さっきから半歩後ろで成り行きをみていた方が口を挟んだ。おそらく、上の立場の人間なのだろう。
どさりと、何かが地面に投げ捨てられる音がした。何だろうと目を凝らすと、それは黒い鞄だった。半分開いた口から、粉のようなものが入った袋がのぞいていた。
「ちょっとお前、この中身を七番倉庫まで運んでこい」
「……何だよコレ」
「こちらのお得意のお偉いさんがいてね。今夜いろーんなとこから『集まって』もらった友達と、パーティをするんだそうだ。これは最高に盛り上がるための演出に欠かせないものなんだよ」
取立屋ふたりが下卑た笑いをもらす。
「待てよ、それって」
「ただ運ぶだけでいい。条件はひとつ、何も詮索しないこと。そうすれば次も、その次もお前にこの仕事を任せてやる。報酬はさっき言った通り、普段のお前の稼ぎの倍以上。悪い話じゃあないだろう?」
優桜はもう相手を覗き見るのを止めていた。剣を抱いて建物に隠れ、可能な限り小さくなろうとしていた。見つからないように。
「鞄を運ぶだけ。それなら仕事で忙しくっても、空いた時間でちょちょいのちょいだ」
足音がした。優桜がいるのとは反対側――表通りの方へと向かっている。
「これ……犯罪じゃねえか」
呻くような男性の声がした。
「いくら犬になり下がってる国家警察でも、これを持っていけば重い腰あげるんじゃねえの?」
「それをして何の得がある? その鞄を運ぶだけでお前は金が手に入って、先方はお楽しみになる。鞄を届ければ警察沙汰。痛いとこだらけの腹は探られるし、俺たちみたいなマトモな取立をしてくれるとこなんてもう鼻も引っかけてくれなくなるぜ。警察は金を貸してはくれないよ? お前の妹のことだって、刃物沙汰にでもならない限り気狂いの二親からなんて助けてはくれないよ?」
誰も何も言わなかった。
「なあ、いつまでも底辺ってしんどいだろ? どうしてお前たちだけそんな目に遭わなきゃいけない? 這い上がるチャンスだよ。無関係な奴から搾り取るのは誰だってみーんなやってるんだ。そうだろう、マイケル?」
(――!)
優桜は恐怖を忘れて、もう一度男性たちの方を見ようと首を伸ばした。地面に転がされた黒の鞄の前にいるのは確かにこの前の壁前市で会ったマイケルだ。メリールウの友達で、サリクスの職場の後輩。
彼は汚れた地面に手も膝もついてうなだれてた。そんなマイケルの肩にぽんと手を置くと、二人組の取立屋は表通りの方へ歩いて行った。
「これ、幻覚剤じゃないか。うちの店でも扱わないようなヤバい薬キメるってどんなだよ……集まってもらった? どう考えても同意の上じゃないだろう」
マイケルは、先日ちらっとだけ会った友人の友人が聞いているなんて想像もしていないだろう。その友人の友人が恐怖と怒りで震えていることも。
「でも、オレとエリザには関係のない人なんだよな」
発せられた言葉に、優桜は耳を疑った。
「一回だけ……一回くらいだったらいいよな。カネ返すぶんだけ」
マイケルは転がっていた鞄を抱きしめた。
「こんだけあればカネ返して、店に前借りしてたぶんも返して……そんでもって、エリザとどっか別のとこ引っ越して」
きっと、疲れていたのだろう。自分たちに責任のない借金のために懸命に働き、理不尽な取立にあっていたのだ。心が擦り切れてしまったのだ。彼の瞳はどんより濁って、うかつに近づけば引きずり込まれる感じを優桜は覚えていた。どんな風に言えば説得できるのだろう?
間違った対応をすればとんでもない事態になるのを、優桜は直感的に感じていた。一度会っただけの自分が出て行くのは無茶だ。友達のメリールウでも無理だと思う。ウッドはどうだろう。説得が商売なのだから適任だろうけど、知り合いではなく、余裕のありそうな人に拗ねた態度を取るマイケルにはかえって火に油を注ぐかもしれない。こうしている間にも危険な目に遭っている人がいて、それを知っている人間が平然と表通りを歩いて行っているのに――。
よく知らない人間が説得しても無理だ。マイケルの知り合いで、彼をよく知っている人物。マイケルが、その人の言葉を素直に聞いて受け入れられるくらいに信頼している人物。
(そうだ。サリクスだ)
何とかしてくれそうな人物が頭に浮かんで、優桜はほっと息を吐いた。従業員が犯罪に荷担したらお店にだって影響が出るのだから、止めてくれないわけはないだろう。サリクスの性格であるなら、なおさら。
(サリクスってお店にいるんだっけ? この時間は家? そういえば今って何時)
そこまで考えた時、優桜はさあっと青ざめた。
サリクスは今日の午後、面接に行くと言っていなかっただろうか?
「……どうしよう」
友達との約束だって突然にキャンセルするのは難しいのだ。それが友達ではなく仕事なら、もう次の機会は得られない。優桜は仕事に応募したことはないが、そのくらいはわかっている。優桜が考えるよりガイアの就職事情はずっと厳しいであろうということも。
何回も断られて、やっと面接してもらえるとサリクスが喜んでいたのはつい二日前のことだ。普段は優桜に頼み事なんかしないような人が、あんなにも真剣だったじゃないか。いつも遊び歩いている人がその時間を割いて向かい合っていたではないか。
真っ当に努力をして新しい人生をつかもうとしている人を邪魔をしていいわけがない。それは間違っている。
だけど、もしも今、このままにしたら――?
たくさんの人が不幸になるのを、あたしは見過ごしてしまっていいの?
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