桜の雨が降る------5部3章9
「ありがとうございました」
職員に軽く頭を下げると優桜は図書館を出た。職員は「またね」と微笑んでくれ、優桜とすれ違いに「本日閉館しました」と書かれた看板を扉の前に立てた。立て続けに閉館まで使用するから、何人かの職員の顔を覚え、向こうからも覚えられてしまっている。
今日も成果は得られなかった。イブ・ロンドという名前で蔵書を調べてみたのだが、この図書館に彼女の本は存在しなかった。本の案内を担当する図書館員にも聞いてみたのだが、イブ・ロンドなる人物の書籍が出版社から発刊されたことはないとのことだった。
『でも、本はあるんですよ?』
『出版の記録には載っていないんですけどね。その本を見せてもらえませんか?』
生憎と絵本を持ってきていなかったので、優桜は明日持ってきますと図書館員に礼を言って切り上げた。
一体、あの絵本はどういうものなのだろう? 本の形になっているのに記録に載っていないものなんてあるのだろうか?
不思議に思いつつも優桜は帰宅したのだが、アパートのドアには鍵がかかっていた。そういえば今日メリールウは夕方ちょっと遅くなるから、先にご飯を食べていてねと食堂のロッカーで言ってきたのだった。
優桜はポケットから鍵を出そうとしたのだが、鍵は入っていなかった。
「あれ?」
鍵だけがないのではなく、普段鍵を入れている貰い物のキーケースがない。落としたのかと真っ青になったのだが、よく考えればそうではなく、元から持ち出していなかったのだ。メリールウは食堂のロッカーで帰り際に遅くなると言ったのであり、優桜は出かける時、今日の夕方はメリールウが家にいると思ったから鍵を持って出なかった。
「なくしてないや。よかっ」
ほっとしたのもつかの間、優桜は自分が直面している大問題に気づいた。
「……よくないじゃない」
鍵がなければ家には入れない。メリールウは遅く帰ってくる。道ではないとはいえ、共用廊下で待つ気にはあまりなれない。
少し考えて、優桜は法律事務所まで下りることにした。ウッドがいれば中に入れてくれるだろう。営業時間中は仕事がないと入れてくれないが、もう終わっている時間だから構わないだろう。
優桜が考えたとおり、ウッドは事務所にいた。時間外のせいか髪をほどいた私服姿だった。楽な格好のせいか髪型のせいかはわからないのだが、私服姿のウッドはいつもより若く見える。
「お仕事終わった?」
「いや、まだしばらくやるつもり」
ウッドは自分の机を手で示した。言葉通りに書類やファイルが積んである。
「着替えてるから終わってるのかと思った」
「気分転換だよ」
お洒落で気分が変わるのは優桜もこの前知ったところだが、仕事にしか興味がなさそうに見えるウッドがそういうふうにするのは少し意外だった。本人に言わせると、人と話す仕事だからそれなりに気を使っているとのことで、ウッドの仕事机の上には男性物の香水瓶がある。書類を押さえる文鎮との兼用になっているのが彼らしかった。
「どうしたんだ?」
問いかけられ、優桜はなるべく聞こえよく事情を説明した。それを聞くとウッドは机の引き出しからケースを出し、中に入っていた鍵を優桜に渡した。
「これは?」
「マスターキー。これで部屋開けてこい」
そういえば上のアパートはウッドが管理しているのだった。
「ありがとう!」
優桜はお礼を言うと、階段を上がって部屋まで戻り、無事にドアを開け中に入ることが出来た。優桜の鍵もちゃんといつもの場所に収めてあった。
洗濯物を取り込んでから、優桜はこのマスターキーをどうすればいいかウッドに聞くのを忘れていたことに気づいた。マスターキーがなくなればたいへんなのだから、早めに返した方がいいだろう。
そこまで考えて、優桜はどうせ事務所に入れてもらえるなら端末を借りようと思った。絵本のことが気になって仕方なかったから。図書館の職員は存在しないと言ったが、絵本自体はここにあるのだし、何かの間違いなのかもしれない。自分で探してみないと気がすまない。
優桜は自分の鍵と置いてあった絵本を持つと、法律事務所に引き返してウッドにマスターキーを返した。
「ありがとう。廊下でメリールウを待たなくて済んだ」
「わざわざ下りてきたの? 別に明日仕事いく時のついででよかったのに」
優桜は緩く頭を振った。
「早く返したかったし、端末も借りたかったの。今、使ってもいい?」
「何か急ぎの調べ物でもあるのか?」
優桜は絵本をウッドに見せた。彼が驚いたような顔をしたので、優桜はこの本は自分には子供っぽかったかなと思い、ごまかすように早口気味に続けた。
「これ、壁前市で買ったの。だけど、後味の悪い終わり方なのに続くってなってて、それでどうしても続きが気になったの。図書館の人はこの本は出版されてないって言ってたけど、本はここにこうしてあるし、どういうことなんだろって」
ウッドは優桜から本を受け取ると、少し見下ろしてから言った。
「……自産本だな。市場に流通してないから出版の記録はない」
「ジサンホン?」
きょとんとする優桜に、ウッドは自分の机の山から法律関係のものらしい本を引き抜くと、同じように裏返した。
「自己生産本。ラベルがこっちにはないだろ?」
ウッドが示した法律本の裏には、確かに朱色のラベルが貼ってあった。半透明の下に日付らしき数字と、ごちゃごちゃしたコードが透けて見える。
「出版年月と出版社の識別コードが書いてある。赤いラベルは市場流通用の検閲が済んでるって印。これが揃ってはじめて本屋に並ぶんだ」
優桜は自分の世界の本のことを考えた。そういえば、どんな本も裏側にバーコードがついていて、不思議に思って明水に聞いたことがある。それと似たような役割をしているのがガイアでは赤いラベルなのだろう。自己生産本とは自費出版と同義なのだろうか。
「それじゃ、売ってないってこと?」
「市場に流通できる許可がないんだから売れない。売れないから、出版の記録もない。図書館の蔵書になることもない。……壁前市のどこで手に入れた?」
優桜はウッドに本を買った時の話をした。話を聞いたウッドは、考えるように顔を片手で覆った。
「死んだ友達の本……ねえ」
ウッドは苦笑いのような表情をしていた。よく考えてみればいささか不謹慎な話であったかもしれない。友達の形見を売っていたわけだから。
優桜はちょっとバツの悪い気持ちで絵本の表紙の、笑っているお姫様を見た。
「売っていた人を見つければ、続きがあるかわかるかな?」
「無理。壁前市なんていつもいつも同じ奴が出店してるとは限らないし、描いた張本人はこの世にいないんだ。続きはない」
切り捨てるようにウッドは言った。
「そっかあ……」
優桜は肩を落とす。
続きが気になって仕方なかった。狂った王様は救われたのだろうか。残されてしまった王子様はどうなったのだろうか。
それが創作の世界だとしても、あまりに悲しく不憫であることに変わりはないのだから。
「絵が、とっても優しくてあったかいでしょ?」
優桜は表紙を示した。
「他はお話もあったかいのに、これだけハッピーエンドじゃなかったの。だから、気になって」
「優桜。その本借りていいか?」
意外なことを言われ、優桜は目を瞬いた。
「……ウッド、絵本読むの?」
「オレがいちばん好きな本は絵本だよ」
優桜はさらに目をぱちぱちさせた。どう考えても結びつかない。
そんな優桜の様子に、ウッドはゆっくりと唇の端をつり上げて笑った。
「別におかしいことじゃないだろ? ストレス発散に夜な夜な放火やら下着ドロをするマジメな会社員に比べればかわいいじゃないか」
とんでもない例えを出され、優桜は頬が引きつった。
「ウッド、仕事のしすぎでストレス溜まってるんじゃ」
そういう不穏な案件でも抱えているのだろうか。ただでさえ忙しいのだから少し休んで欲しいと思う。読み終わったら返してねと念を押してから、優桜は絵本をウッドに渡した。
「何か手伝えることある?」
ウッドがこたえるより早く、端末の着信音が二人を遮った。もう他に誰も残っていなかったため、ウッドが出ることになる。
「受信しました。こちらはグリーン法律事務所です。……どうも」
応答しながら、ウッドは優桜に目を向け、そのまま視線を扉に移した。その意味を察し、優桜はちょっとだけ頭を下げると事務所から出て部屋に戻った。
*****
軽く息を吐いてから、ウッドは傍らに置いたままだった本に視線を落とした。
その本は記憶の中と変わらない姿でそこにあった。十年も目にしなかったはずなのに、ぬくもりのある表紙は初めて見た日そのままのようだ。
全て棄ててしまったはずだったが、流石に友人の持ち物まで処分はできなかったか。彼女は自分と違って社交的な性格だったのだから、交際範囲も広かった。
指先が伸ばされ、木賊色で書かれた「イブ・ロンド」の名前をそっと辿った。
「こういう驚かせるイタズラは好きだったよな」
彼女を思い出す必要はない。忘れたことなどないのだから。
『もう貴方と一緒にいられない。ごめんね』
そう言って最期に哀しく笑っていた姿を忘れられるはずがない。
「誰が離婚なんかするかよ……」
別れたとは言ったが、離婚したとは言っていない。言葉をどう解釈するかは相手の権利であり、それが肯定されるなら、真実をどう表現するかを選ぶのは自分の権利であるはずだった。
「反則だよ。いくら探してもみつからなかったのに今更出してくるなんて。『天国からあなたへのメッセージです』ってか? そんなファンタジックでご都合主義な展開、おまえの作風じゃなかっただろ」
昔から風邪ひとつひいたことがない、だから絶対にあなたより長生きする。そう豪語して笑っていた彼女の年格好は、今の自分よりはるかに年下になってしまった。
なぜ、今このタイミングで、優桜の手元に彼女の本が来ることになったのだろう。そして優桜は、よりにもよって彼女を思わせる真っ直ぐな性格をしている。
眩しく感じるくらいに真っ直ぐな女性だった。一途に夢に向かい、日常の些細な幸せの場面を白いスケッチブックに描き出していた。それを写実派と呼ぶのか現実主義と呼ぶのかは、創作に縁がないウッドにはわからない。
彼女が荒唐無稽な、現実にありえない『ファンタジー』を描いたのはこの本が最初で、そして唯一にして最後の作品になった。
この本を初めて読んだ時、自分も優桜のように真っ先に続きの在りかを尋ねた。すると彼女は笑って「今とびっきりのハッピーエンドの続編を描いてる途中なの」と言ったのだった。
「さすがのおまえも、この話にハッピーエンドなんて無理だったよな」
彼女の遺稿の中に、信用金庫のロゴがべったり張りついた、不格好な手帳があった。夕飯の献立や待ち合わせの場所という平凡な日常の間に、書きかけのメモが山ほど挟まってはち切れそうになっていた。この話には何一つ触れられていなかったメモの束を見た時、何故だかひどく悲しくなったのだ。涙も涸れて、もう何も感じることなどないと思っていたのに。
手帳の時のように、絵本を無造作にゴミ箱に投げ落とす。つい昨日、残したホットドッグを捨てたのと同じ場所に。
ふと、ウッドは窓の外に目をやった。硝子の向こうには藍色の夜が広がっている。映った酷薄な笑顔はぼやけて見えた。
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