桜の雨が降る------5部3章4

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 壁前市の日、優桜は少し早く目が覚めたのだが、メリールウはそれより早く起きていた。今日もメリールウは、赤い髪をふたつのおだんごに結い上げていた。人の多い場所や人目を気にする場所に出かける時、彼女は髪と肌をなるべく目立ちにくいようにしていた。
「オハヨ、ユーサ」
「おはよう」
 優桜は返事をしてから目を擦った。夢を見ていたような気もしたし、何も見ていなかった気がした。準備をしなきゃと、緩慢な動作で寝場所にしているマットレスから出る。枕元に置いていた着替えをつかむと、あまり音を立てないように気をつけて洗面所に向かった。メリールウがいない時はマットレスの横で着替えてしまうが、彼女がいるとちょっと気恥ずかしい。体育や道場、部活の時にみんなが着替えをしている更衣室なら大丈夫なのに。
「ごはんテーブルにできてるよー」
 メリールウの声が追いかけてきた。
 優桜が顔を洗い、いつものセーラー服を身につけて出てくると、メリールウが言ったとおりダイニングテーブルの上にサンドイッチが乗っていた。二枚の食パンでチーズと目玉焼きをはさみ、トースターで温めたのを半分に切ったようだ。もう半分は見あたらない。多分、先にメリールウの胃の中に収まったのだと思う。
 冷蔵庫から牛乳を出し、一緒に先日の残りのスープを出してきて温める。メリールウが歌う、耳慣れないけれど心地いい節回しのハミングを聞きながら優桜は朝ご飯を食べた。
 居間に戻ると、既にメリールウは準備万端のようだった。
「ユーサ、支度できた?」
「うん。あとはカーディガン着るだけ」
 メリールウは優桜にまじまじと顔を近づけてきた。優桜はびっくりして逃げ腰になる。
「何? メリールウ」
「ユーサ、かわいくならない?」
「え?」
 メリールウは優桜の手を引っ張ると、鏡台の前の椅子に座らせた。
「えっ、何?」
「ユーサはかわいい。その服もかわいい。でももっとかわいくなる」
 訳がわからず、優桜は目を白黒させる。
 メリールウは優桜の脇に膝をつくと、鏡台の引き出しを開けて中から棒状のものを取り出した。優桜の中指くらいの長さで、上は紺色で下はつややかなピンク色だ。メリールウが紺色の部分を引き抜くと、それは蓋で一緒にブラシがついてきた。
「ユーサ、口きゅってしてね」
「えっと、それって口紅? 口に塗るの?!」
 口を閉じろと言われたのに、優桜は思わず大声を出してしまう。メリールウは驚いて身を引いた。
「あっ、そっかごめん。口がおんなじはイヤだよね」
 リップクリームを貸し借りしているクラスメイトはいるのだが、優桜はあまりいい気分がしなくて加わったことがない。肌に触れない制汗スプレーなら、忘れたときの貸し借りは抵抗はないのだが。
 メリールウはうーんと短く唸った。そのあとでぱっとひらめいたようになって、鏡台の別の引き出しを抜くと、そこから半分ほどの長さの、パッケージされたパッションカラーの筒を出してきた。
 褐色の指先がよどみなくパッケージから筒を取り出し、きゅっと捻る。中から姿を現わしたのは、滑らかな真珠色の芯だった。まごうことなく新品だ。
「いいの? メリールウのでしょ?」
 高級そうな品物に見えた。少なくとも優桜の普段使いのリップクリームとは桁違いだと思う。優桜は化粧品に詳しくないが、見ただけで滑らかで高級感があるのだ。ガイアと現代では物価が違うとはいえ、メリールウの暮らしは決して豊かではない。
「これはまだ使ってない。ユーサもだいじょぶ」
 そう言うとメリールウは、優桜の唇に手にしたものを当てた。それは優桜の想像通り、リップクリームとは違うつややかさで優桜を彩った。朝のひざしがちらちらと差しこむ鏡の中で、優桜の唇は大人の女性のような華やかさに光っていた。母親の結女が化粧をした時のような。
「まつげもぱっちりね」
 メリールウはひとつ頷くと、鏡台の引き出しから銅色の鋏のような面妖な道具を出してきた。
「目、つぶっててね」
「えっ?!」
「つぶってないとすっごく痛いよー。動いちゃだめだからね」
 言われたとおり優桜は目を閉じた。まつげが何かにはさまれて引っ張られる。
「ちょっと痛いんだけど」
「動いたらダメ! まつげぜーんぶ取れちゃうよ」
 優桜は大人しくされるがままになった。
 引っ張られるちくちくした感じは二、三回繰り返された。メリールウがもういいよと言ったので目を開け、おそるおそる鏡を見る。
 僅かな細工をほどこされただけなのに、いつもより綺麗な自分が映っていた。
「なっ、何で?! ちょっとだけなのに」
「そのちょっとが大きいの!」
 最後にメリールウは、一体いつ出していたのか、春の空のような水色のリボンを優桜のポニーテールに結びつけた。
「どう? いっぱいかわいくなったでしょ?」
「……うん」
 優桜は素直に頷いた。
 ごく淡いピンクに彩られた唇は違和感なくつややかで、まつげを少しカールしただけなのに普段は切れ長の瞳がぱっちりと見える。空色のリボンは優桜のセーラー服とよく似合っていた。
 今まで部活ばかりで、優桜は化粧をしたいと思わなかった。それでも年頃の女の子だから、こっそり母の化粧品でめかしこんだことはある。雑誌をお手本に、シャドウやチークで飾り立てた優桜のはじめての化粧は、父に見つかってこてんぱんに叱られたため、明水に見せる前に終わった。「学生が化粧なんてするもんじゃない」「派手な格好をして妙な男に目をつけられたらどうする?!」と父は青筋を立ててがなり立てた。
 ごめんなさいと、ごしごし顔を洗って化粧を落としつつ、優桜はお腹の中で反発していた。お父さんはあたしを思ってるんじゃなくて、自分の古傷をあぶられるのが嫌なだけでしょう、と。
 方法を知っていれば、こんなに自然に装うこともできるのか。
「ありがとう」
「ホントはもっと派手にしたいんだけどねー」
 メリールウは化粧品を片付けながら、残念そうに言った。
「マスカラしたいし、アイブロウだって」
「それは……うん」
 優桜は謹んで辞退することにした。メリールウの化粧品を借りると赤くなってしまう。そのことを彼女は多分、失念している。
「制服だとこれ以上は似合わないと思う」
「服も貸したげるのに」
 優桜は首を振って話題をそらした。
「時間、大丈夫?」
 時計を見たメリールウはきゃっと小さく悲鳴を上げた。
「いっけない。もう出なくちゃ」
 メリールウは優桜を玄関の方へ急かした。
 サリクスとアパートの前で待ち合わせをしているのだった。ウッドとは昼過ぎから会場で合流する約束になっている。サリクスは螺旋階段の手すりにもたれかかるようにして立っていた。
 斜めに入ってくる朝のひざしが、サリクスの髪を光の色に透かしていた。いつもより髪が明るいように思うのは、服装が明るい色のカーゴパンツとシャツだからか。スマートなベストを合わせていて、いつものことだが洒落て見えた。
「サリクスおはよ! 朝から会えて嬉しい」
「ルー、久しぶり。少し会わない間にまた可愛くなった?」
 飛びついてきたメリールウをサリクスはぎゅっと抱き寄せた。少し背伸びしてメリールウがその頬に口づける。相変わらず優桜には気恥ずかしい光景で、それでも挨拶はしなければと思い、優桜はおはようと小さく言った。
「ユーサもおはよ……ってあれ?」
 メリールウを名残惜しげに手放したサリクスが優桜に視線を向けた。いつもよりまじまじと見てくるので、思わず優桜は後ずさる。
「ユーサ、化粧してる? 目と唇」
「おかしい?!」
 優桜はあわあわと髪や頬に手をやった。自分の感覚ではかわいかったし、メリールウも可愛いと言ってくれたが、そうではなかったのだろうか。確かにメリールウの感性はガイアの一般と違う部分があるが。
「ううん」
 彼は笑顔で首を振った。
「超イケてるよ。かわいい。髪飾りも変わってるんだな。ルーがやったの?」
 そうだよ、とメリールウが得意げに胸を張る。
「いつもの格好じゃ楽しくないんだもん」
「楽しくない、って」
 洋服は楽しい楽しくないで変えるものではないだろう。
「楽しいにこしたことないっしょ。派手すぎないからその服と似合ってるよ。いつもより五割増しで別嬪さん」
 これだけ褒められれば悪い気はせず、優桜は頬を染めて俯いた。
「どう? 今夜は無理だけど明日以降ならがんばって時間作るよ? 繁華街でも俺の部屋でもお好きなところへ」
「……それはいらない」
 優桜は顔をそらした。こういうとこさえなければなあと思いながら。メリールウは可笑しげに笑っている。
「サリクス、ありがとね。ずっと忙しいのに。昨夜もお勉強とお仕事でしょ?」
「そろそろ遊びたくてイライラしてたから。寝不足だって構わないよ」
 サリクスは普段は夜の仕事をしている。自称用心棒という肩書きや、勤務先の店の名前からしてどうやら真っ当な商売ではないらしい。優桜はこの世界に来た直後、どうも彼と同じ店に勤めているらしい男性数人に連れ去られそうになったくらいだ。
 そんな危なげな仕事をしているわりに、サリクス本人は意外なほどの好青年なのだった。優桜が危ない目に遭えば助けてくれたし、彼がメリールウを放浪者だからと悪く言ったのは聞いたことがない。女性に会う度口説くような発言が玉に瑕だと優桜は思っているが、これが魅力という人もきっといるのだろう。優桜には一生わからないだろうが。優桜の憧れの男性は従兄の明水であり、彼は極めて誠実な人柄の持ち主なのだから。
「こーんな美人二人のエスコートができるんなら、多少の無茶はしますって」
 そう言ってサリクスは二人の優桜とメリールウ、二人の肩に手を伸ばしてきたが、優桜はするっと抜けてしまった。服装は違ったけれど、いつもと同じ爽やかな香水の匂いがした。メリールウの方は嬉しそうにその手に自分の頭を委ねる。サリクスはそこで満足したのか、優桜を深追いしてはこなかった。
 この二人の関係が、優桜にはいまいちわからない。サリクスはメリールウを好きだと言っているが、セクハラで訴えられそうなくらいに際どい文句で平然と他の女の子を口説くし、メリールウの目の前でも優桜にそんな冗談を言う。
 メリールウはそれを聞きながら一緒になって笑い転げている。だから、メリールウはサリクスのことを好きではないのかなと優桜は思っている。自分の好きな人が他の女の子に声をかけていたら、優桜だったら怒る。キライになる。
 でも、メリールウが今しているように帽子の頭を腕に預けたりする相手はサリクスだけなのだ。そういう時、メリールウはいつでも本当に嬉しそうに笑っている。いつもの笑顔が幸せで輝いている。
(どうなんだろう?)
 そんなことを考えながら、優桜が角を繁華街の方に曲がろうとすると、慌てたような声が追いかけてきた。
「ユーサ、ちがうちがう! 逆だよー」
「え? 壁前市って繁華街でやるんじゃないの?」
「違う違う。繁華街でなんかやらないよ」
 ここは中央首都と呼ばれる街で、ガイア国の中心になる。この街は居住区、商業区などいろいろなエリアで区切られている。法律事務所があるビルは、オフィス街と繁華街の境目に近い場所にある。
 繁華街というのは、飲み屋や賭け事の店が集まる、優桜たちの世界で所謂「盛り場」と呼ばれる場所だ。治安があまり良くない。この繁華街には階層めいたものがあり、ずっと奥まで行けば「裏」と呼ばれる非合法な場所になる。違法な掛け率の賭博や過激な風俗店が軒を連ねるその場所は、繁華街の住人からも「地の底」(プロファンダム)と称される。
 メリールウやサリクスは、どちらかと言えば繁華街の表側の住人である。この二人が一緒だから、優桜は勝手に壁前市とは繁華街が関係するイベントだと思っていた。
「壁前って言ってるじゃん。繁華街は関係ないよ」
「そういえば、なんでヘキゼンチって言うの?」
 言葉を知った時からの疑問だったことを優桜は聞いてみた。ふたりには予想外の質問だったらしい。赤と緑の目が揃って丸くなる。
「壁の前だからよー。ヘキゼンはヘキゼン」
「それは聞いたんだけど」
「ユーサの世界って、壁がないの? 貴族の場所に市民が入れちゃったりするわけ?」
 サリクスは優桜が別の世界から来たことを知っている数少ない人である。積極的に話題にすることはないが、たまに世界の違いの話になると、地球の話をまるで創作のように受け取って、自分の現実であるガイアを優桜に教えてくれる。ウッドのように要点だけ的確に捉えていることはないが、メリールウのような難解さもないため、優桜にとってはありがたい話し手であった。途中で女性の話にそれなければ。
「壁……あ、そっか」
 少し考えて、優桜はこの世界に『壁』と呼ばれるものがあることに思い当たった。
「でも、内戦って終わったんじゃなかったっけ?」
「そういやそうだよな。でも壁ってなくなったことないよな。な?」
 話を振られたメリールウも「うん」と頷いた。彼女の目にはありありと感情が映っている。ユーサ、どうしてそんな当たり前のことを聞くの?
「上手く言えないけど、合ってるのもわかるんだけど……でも間違ってる気がする」
「?」
 曖昧な優桜の物言いを聞いた二人は不思議そうに顔を見合わせた。
 国の重要な機関を守るのは当然だ。国の象徴である王様だって守るべきだろう。特別な安全地帯を作ってそこに隔離して……というのもわからなくもない。しかし「安全地帯は人を盾にして作る」というのはどうなのだろう。王様だけではなく一部の権力者と、その親族にも解放されているのはどうしてだろう。なぜそんな場所ができてしまったのか。
 壁の中なんてなければ、パルポネラだってあんなふうにならなかったかもしれないのに。絶交してしまった友人の上品な笑顔が、優桜の胸に苦く広がった。
「ユーサって変わってるね」
「……そう?」
 優桜としてはメリールウのほうが変わっていると思うのだが。
「昔からそうだったーって習ったけどな。元々、街ってのは入るのに許可がいって、その許可がない商人は入り口で閉め出されて、それじゃ売れない困ったーって入り口で商売はじめたのが壁前市」
「そうなの?」
「俺はそう習ったよ?」
「あたし、初めて聞いた」
「教科書とかエラい奴の考えは俺にはわからん。ウッドが何考えてるかだってわからんのに」
 貴方はこの会社をどうしたいと思っていますかなんて、聞かれても勤めてもいないのにわかるかよとサリクスはそう続けた。どうやら、自己申告通りかなり鬱憤が溜まっているらしい。
 そんな雑談をしながら、優桜たちは道を歩いた。休日の朝で最初は人通りも少なかったのだが、今では同じ方向に歩く人たちが周囲に何人もいる。
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