桜の雨が降る------5部2章4

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「これは、後悔……と読むんですかね」
 夕方の自室で、明水は日記帳と手帳を交互に見比べていた。手帳には紙が黒くなりそうな量でメモが書き込まれている。
 明水は優桜の曾祖母、藤江舞由が遺した日記を読み解いていた。
 五年単位の当用日記ではあるが、毎日書いてあるわけではなく二、三日に一回くらいの頻度だったため、記述の量は冊子の数の半分以下と考えていいようだった。内容も「町内会費の払い込み」や「日曜参観」「結女ちゃんドラマ二十一時から」というスケジュール帳のような一言だけのメモが多い。
 そんなに几帳面ではない人のスケジュール帳兼日記帳という印象だった。
 最初にざっと見た時にわかっていたことだが、この日記は以前の月日に――藤江舞由が日記を書き始めた頃に近づくほど、日本語ではない文字が多くなる。最初の何日かは図書館で調べたのだが、そこにあったどの辞書に使われていた言葉とも一致しなかった。
 言語の数を正確に数えるのは不可能だと、大学の講義で聞いたことがある。図書館にない言葉を使って書いている可能性は高く、そして恐ろしいことに「異世界に関わる人間ではないか」という疑惑が濃厚なため「どんな辞書の言葉でもない」という説が極めて有力だった。
 外国語の授業は辞書と参考書がなければ難しかった人間にはハードルが高すぎる。異世界の魔法の言葉だというのなら、手をかざしただけで文字が浮き上がって解読されるとか、そういう要素はないのだろうか。試しにペンダントをかざしてみたが何も起こらなかった。後に残ったのは虚脱感と「何で自分はこんなことができると信じたのか」という自己嫌悪だけだった。
 明水にとっての唯一の救いは、いきなり言葉が切り替わるのではなく、表記が混在している箇所があったことだった。読めない文字の後ろに「398」や「98」などの数字が書かれていると、買い物のメモだということが察せられる。おそらく、名詞が上手く浮かばず、そこだけ自分がよく知っている異世界の言語で書き出したのだろう。何を購入したかは、値段や判明している周囲の内容から見当をつけられる場合がある。
 明水はそういうやりかたで意味の推測できた単語を書き付け、それを辞書代わりにして読み進めていた。かなり無茶な荒技ではあったが、それなりにわかってくるものはあった。
 この日記帳には、結女に関しての記述が少ないのだ。
 叔母の妹である深川絵麻のことはたくさん書いてあった。高校の入学式に行ったこと、一緒に春の洋服を買いに出かけたこと、週末に遊びに来た彼女とケーキを焼いたこと、修学旅行のお土産の話……祖母と孫というよりは、母と娘のような睦まじさがそこにあった。深川絵麻の卒業文集を読んだことがあるが、そういえば彼女も祖母のことが大好きだと書いていた。仕事で不在がちだった両親に代わり自分を育ててくれたと。
 それは事実だろう。文集で嘘をつく理由が見あたらない。では、結女は?
 姉妹であったなら、同じように藤江舞由に育てられていておかしくないはずの叔母の姿が、この日記帳には薄い。
 記述はある。でも、とても少ない。その記述も大半が「番組二十二時から」「収録で伊豆へ」などの簡素なものだ。
 この差はどこから来ているのだろう? 普通なら逆になるのではないだろうか。テレビに出ている姉をちやほやし妹を虐げるというのならあり得る話と思ってしまうが、取り立てて特徴のない妹を可愛がり芸能人の姉を放り出すというのはよくわからない。
「どういう人だったんでしょうか」
 優桜にとっては実の曾祖母。明水から見ても「叔母の祖母」だから縁がないわけではない人ということになるが、得体が知れなくて気味が悪い。
 少し気になって、明水は叔母と深川絵麻が生まれた日の記述を調べてみた。叔母の方は全部日本語で書かれていたので、あっさりと読めた。意外にも普通の内容であり、孫娘が生まれた喜びと赤ん坊の仕草の可愛らしさが空白だった他の日付用の箇所まで使う勢いで書かれていた。数日後に名前を『結女』と決めたと、ここも同じくらいの量で日に日に大きくなる彼女の愛らしさが綴られていた。思わず明水の頬が緩むくらいに。
 次に開いた深川絵麻の誕生日の記述は、少し趣が異なっていた。やはり他の場所まで使う勢いで文字が書かれているのだが、喜びの言葉ではなく、例の異世界の単語が混ざり込んだ記述だった。
『私が生きている間には生まれてこないものかと思っていましたが、この子こそ間違いなく私の血を受け継ぐXXXです。私は何に変えても、この子を正しく育てなければなりません』
 数日後に命名に関しての記載があり、自分から取って『絵麻』とつけたことが書かれていた。名と、やはり明水には読めない何かを成すべき子供だとも書かれていた。
 さっきまでのあたたかな気分が一気に冷めた。読めないこの単語は何なのか? 二十年以上前に亡くなった藤江舞由と深川絵麻という人物は、優桜が今いるであろう異世界とどういう関係があったのか。  特に藤江舞由はどこか気味が悪い。写真などからまだ人柄を察せられる深川絵麻とは違って得体の知れない文字だけで、しかも死因が不明だからそう感じるのかも知れなかったが。自分から取って絵麻、という命名の仕方もどこか根拠がおかしい。
「『ふじえまゆ』の途中を取って『えま』ですかね」
 少し考えてこの結論に辿り着いたが、こんな名付けをするものだろうか。
 深川絵麻は、明水には読めない文字で書かれた『何か』だった。それはこの世界では何の価値もないが、舞由に――異世界にとっては貴重な存在だったのは文面から察せられる。だとすれば絵麻を大切にし、結女を放り出したのには実は意味があったことになる。
 記述と明水の推測が全て正しいなら、結女は『何か』を受け継がなかった。そこで終わるものであるならいいが、その『何か』が結女を飛ばして優桜に引き継がれている可能性は大いにある。私の血を受け継ぐと書いてあり、実際に深川絵麻はその『何か』だったのだ。優桜は深川絵麻とは血のつながった叔母と姪になる。隔世遺伝という言葉もある。  この世界では意味がない者だから、誰も知らないから誰も気づかなかっただけで、優桜が『何か』だった可能性は存在する。
「明水ー?! 夕ご飯だよ。寝てるの?」
 母の声がして、明水は慌てて日記帳を閉じた。時計を見るととっくに十九時を回っていた。急いで机の上を片付けて台所に行くと、両親と祖父はもう夕飯を食べ始めていた。
「返事くらいしてちょうだいよ。寝てたの?」
「いえ、調べ物をしてまして」
 明水は最低限の言葉で答えて、炊飯器からご飯をよそった。嘘を重ねすぎると足下をすくわれるような気がして、最近はできるだけ本当の内容に聞こえるように短く曖昧な答え方をしている。
「最近ずっと遅くまで電気がついてるし。忙しい時期なのはわかるけど、そんなに仕事はないはずでしょう?」
 母は食い下がってきた。こういう時、職場が実家だとごまかしが利かない。
「え……僕そんなに遅くまで起きてますか?」
 お茶を取って欲しいと話を振って、明水は何気なく会話を流そうとしたが、母はその手に乗ってくれなかった。
「起きてるわよ。優ちゃんのことでも、忙しいのはわかるけど」
「母さんは心配じゃないんですか?」
 心配に決まってるでしょうと、母は声を詰まらせた。
「結女さんが無理をするから、優ちゃんも隆敏くんもこんなことになってしまって。だから、あんなに仕事は止めなさいって言ったのに」
 母さんと、父が母を嗜める。
「叔父さんの事務所って何かあったんですか?」
 明水が聞くと、父は口が重そうだったのだが、やがて話してくれた。
 叔父夫婦は法律事務所を経営しており、外から見るぶんには繁盛して順風満帆に見える。しかし、その仕事の量は叔父夫婦の手にはおえないほどに膨れあがっていたのだという。特に弁護士である叔母の負担は計り知れず、体調を崩し気味だったのに病院に行く寸暇を惜しんだことが今回、倒れてしまう原因になった。
「あんなに仕事をして、それで、優ちゃんのことも放っておきたくないって自分の休む時間を削って。若い頃は相当無茶をしたから、こんなの全然平気って言ってたけど、結女さんだっていつまでも若くはないんだから」
 強い不満をもらしながら、母は心配して嘆いているようにも見えた。
「どうして、そんなに仕事を?」
「隆敏も、結女さんも、若い女の子が絡む事件は他人事に思えないんだよ」
 静かにそう言ったのは祖父だった。それで明水は理由を悟った。
 放っておけずに、既に山のような仕事を抱えていながら、それでも支援の手を差し伸べる。それは実際には、自分たち自身への救済なのだろう。だから、両親も祖父も止めなかった。止められなかった。
「……大丈夫ですよ。ちゃんと寝てますし食べてますから」
 そういいつつ、明水の箸の動きは鈍かったが、もう誰からも不審に思われることはなかった。
 夕飯を口に運びながら、明水は叔母のことを考えていた。
 重要な人物ではなかったから放り出されたとしたなら。それが現代では何の意味も持たない理由であるなら、妹だけが可愛がられるのを彼女はどう思っていたのだろう。両親に放り出され、祖母からも手放され、自分が見知らぬ大人たちに囲まれている間、妹だけが祖母の手元で可愛がられているのだとしたら――。
(だからって、何をしてもいいなんてことはないですけど)
 叔母は、身を削って仕事をしていた。優桜のことも、困っている人たちのことも放り出さず、倒れてしまうまでに自分自身を投げ捨てて。
 それは叔母の贖罪だったのかもしれないなと、はじめてそんな風に考えた。
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