桜の雨が降る------5部2章3

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 今は『姫君』と呼ばれている舞生は、ぼんやりと目を開けた。
 いくら偽名が必要だったとはいえ、誰かおかしいとは思わなかったのだろうか? 確かにお嬢様育ちの自覚はあるが、自分はお姫様ではないし、アキだって忠義一途の騎士様というタイプではない。目的のために手段を選ばない性格は、騎士道精神とはかけ離れている。はっきり言ってしまえば逆だ。
 でも、アキは幼い頃から、自分を大切にしてくれている。幼馴染達が彼を揶揄して『騎士』と呼ぶのはそういうところからだ。ただひとりを決めて、誠実に忠実に愛し守り抜く。例えその相手が精神を狂わせてしまったとしても――。
 自分がおかしくなってしまったことを『姫君』はわかっている。最初は、時々奇妙な夢を見る程度だった。それは内戦の光景だったり、お伽噺に出てくるような昔、火あぶりにされて殺された魔女の裁判だったり、骨と化した妻を愛しく抱く男の姿だったりした。
 それだけなら友達とお昼ごはんの話の種にし、夢占いの本を繰る程度ですんだだろう。そうならなかったのは、目が覚めている状態でも気づくと夢の中を覗きこんでいたり、頭の中に何かを流し込まれるような違和感を覚え始めたからだった。それをしている『誰か』の存在に気づいたときには時遅く、姫君はケーブルに絡め取られていた。
 姫君は、どうしてこのようなことが起きたかを知らされている。両親と、幼馴染たちの両親が本当は何をしたのか――自分たちに隠されていることも知らされている。最愛の『騎士』の身の上に何が起こっていたかも。
(お願い、もう止めて)
 そう訴えているのに、騎士には聞こえていないようだった。端正な眉が、悲嘆なのか心配なのかわからない形に寄っている。
「俺たちが言ってること、わかってないんだな」
 わかっていないのは騎士の方なのに。
「可哀想で見ていられないわ」
 俯くファゴの肩を抱いて、ツェルが何かを言っている。面倒見が良く優しい彼女だから、励ましているのだろう。自身も慰めを必要とする顔をしながら。
「あいつらは絵麻おばさんのことを知ってる。フォルステッドだってことも。何とかしないと、おばさんが危ないことになる。姫君のことを壊しているのも、おばさん達への復讐なのかも――」
(違う。それだけじゃないの)
 ああ、何でこんなに間違ってしまったの? ラーリ達がついているのに。
 彼女――優桜は偽りの平和姫を制裁しようとしているのではない。彼女は、叔母の深川絵麻を探しているのだ。姫君と同じように元の居場所に戻りたいと願って、必死に手がかりとなりそうな人物を探しているだけ。それが舞生の母だったというだけ。
 別の場所に連れ去られてしまった者を、なんとかして元に戻したい。全く同じ願いと祈りを抱いて、彼らはいがみ合っている。
 姫君は、自分をつなぐケーブルを通じて真実を知った。『向こう側』の人物が、これから何を起こそうとしているのかも。
 伝えるだけで全ては回避されるはずなのに。自分を壊している人物が、優桜とは別人だと言うだけでいいのだ。それなのに姫君の口は上手く動かない。あの幼い日と同じに。
(お願い、アキにいちゃん。優桜の話をよく聞いて)
「どうした? どこか痛いのか?」
 言葉にはならなかったが、唇は僅かに動いた。騎士が自分を覗き込み、額に落ちていた前髪をかき上げ、大きな手をあてた。
 その手はあたたかい。いつも自分の手をひいてくれたぬくもり。
 なのに、騎士は表情をまた険しくした。
「冷たいな」
 あいつのせいだと、騎士は吐き捨てる。
「何でこんな目に遭わされてるんだよ?! 一体何をしたっていうんだ? 静かに暮らしていただけじゃないか。何か悪いことをしたのかよ!」
 激昂する騎士を、ツェルとオボアが宥めていた。
「どうしてだよ。おれがこうなるっていうんならまだわかるよ。やさぐれて家出しようとしたおれのことすら留めてくれた優しい子が、なんでこんなことになるんだ?!」
 ああ、そんなにも前のことを覚えていてくれたんだ。姫君は心の中で息をつく。
 初めて会ってから少し経った頃だったね。境遇のあまりの悲しさとやるせなさに耐えかねて、アキは両親の元から去ろうとした。出て行こうとした彼があまりにも寂しそうだったから、舞生は懸命に引きとめたのだ。おうちに帰ろう、おにいちゃんのママとパパはおにいちゃんを待っているよと。
 もしもあの時、引きとめなかったらと考えると怖くて仕方ない。貴方を失ってしまったのだから。
 でも、もしも引きとめなかったのなら、あたしが貴方を恐ろしい道に突き進ませることはなかったの? 貴方と大切な友達をこんなことに巻き込んだ。
「最近はずっと点滴だけで、寝てる時じゃないと嫌がるし。点滴も栄養剤もあの子達が何とかしてくれるけど、このままじゃ体が保たないよ」
 泣きそうな顔になった騎士に、ごめんねと謝る声は届かない。
 つながれるのは嫌なの。自分では抑えきれない恐ろしい大きな流れがやってくるから。
 本当は、眠るのも嫌なの。流れが夢になって心を侵されるから。
 あたし達は、無自覚に大きな流れにつながってしまう。この呪いのような力は、もうずっと昔から血の中に受け継がれてきた。あたしと、優桜と、それから――。
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