桜の雨が降る------5部2章1

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第5部2章 追憶の色は

 眠気のせいなのだろうか、頭がぼんやりしてきた。体がふわふわとあたたかい。その温もりが、優桜から考える力を吸い取っていく。
 子供の頃、明水の家のこたつが好きだった。優桜の家にはこたつはなかったから、冬に両親に連れられて伯父の家に行くと、ものめずらしくて挨拶もそこそこに潜り込んでいた。そんな優桜のことを、いつも明水は笑って見守ってくれた。膝に甘えるうち、寝てしまったこともあった。
 遠い懐かしい頃を思い出す温かさの中で、優桜は眠ろうとしていた。意識を手放す刹那に、優桜はどこまでも青く広がる世界を見た気がした。
(……あれ?)
 一面に広がる宵闇色の世界。そこに誰かがいる。ケーブルにつながれた少女が座らされている。優桜は彼女を見ているはずなのだが、なぜか優桜の目には優桜自身が映っていた。紺のセーラー服とカーディガン。高い位置で結ばれた髪。いつも鏡で見慣れた自分自身だった。優桜は不思議そうな顔で手を差し出していた。
 自分はここにいる。ここで少女を見ている。少女は優桜を見ている。不思議そうな顔で。その両方が今の優桜にわかっている。
 ふたつの視点から同時に見えるだなんて、起こるはずがない。それなのに今、優桜の中では自分と少女のふたつの目線が混ざっていた。
 どうして、こんなことになっているんだろう――それを考えるには優桜の頭は朦朧としすぎていた。剥き出しの手足を痛々しく絡め取られた少女を助けてあげたいはずなのに、瞼が落ちてくる。少女はそんな自分を気遣わしげに見ている。
 ぐにゃっと、その瞳が歪んだ。ふたつの思考が一人の中にあるというあり得ない状況を正すかのように、混ぜ合わされていく。抗いたいのに、眠気に絡め取られた優桜にはそれができない。
(兄ちゃん。明水、兄ちゃん……)
 さっきまであったはずの温もりをたぐり寄せるように、優桜は明水を呼んだ。
(……お兄ちゃん)

*****
 
(……お兄ちゃん)
 冷たい薄闇の中で、優桜の記憶と何かの記憶が混ぜ合わされていく。
 自分の知っている兄ちゃんは、やわらかい茶色の髪。だけど本当の色は茶色ではなくて、優桜と同じ黒髪だ。大学の雰囲気に馴染むためにわざと軽く染めるようになったのだと聞いた。眼鏡をかけているので、黒髪だと印象が硬くなりすぎるのだそうだ。
(おにいちゃん……)
 目の前にいる人物を呼ぶ。「おにいちゃん」は金髪だった。微かに赤みがかった、見事な金髪。真っ白な肌と、パパの研究室にある力包石よりずっと輝く緑色の瞳。男の子なのに、お店でいっとう素敵なお人形よりも「おにいちゃん」は綺麗なのだった。
 最初は違う名前で呼んでいたのだが、ある時、おにいちゃんはこう言った。両親から、自分のための大切な名前をもらったと。僕の名前は――。
 おにいちゃんのママが、おにいちゃんと、おにいちゃんが生まれた綺麗な季節を祝うための大切な名前。そうだ。どうして忘れていたの?
「アキ兄ちゃん!」
 そうだ。出会ったときからずっと、彼はこの容姿だった。この名前だった。なぜ舞生(マイ)は彼を自分と同じ黒髪のおにいちゃんだと思っていたのだろう?
 答えはきっと、自分がずっとずっと兄が欲しいと思い続けていたからだ。舞生は兄弟が欲しかったのだが、あいにくこの年まで一人っ子だった。だから、おばさんの家に彼が来て、自分のおにいちゃんになってくれると知って本当に嬉しかった。
 そう。嬉しかったのだ。なのに、どうしてこんなことになったの?
「ごめんなさい。おにいちゃん、ごめんなさい……」
 泣きじゃくる舞生の頭を撫でながら、アキは「いいんだよ」「おれは大丈夫だよ」と繰り返した。大丈夫じゃないのは、舞生がいちばんわかっている。
 舞生は両親と一緒に、周りを緑に囲まれた家で暮らしている。優しくて、美味しいご飯を作ってくれる母と、仕事で忙しいけれど帰ってくれば舞生とたくさん遊んでくれる父。舞生はふたりのことが大好きだ。
 二人は舞生を連れていろんなところに遊びに行く。行き先にはだいたい舞生と同じ年頃の子供がいて、舞生はその子達といつも楽しく遊んで過ごすのだった。
 ひとつだけ不思議だったのは、遊びに行く家には子供が何人もいるのに、舞生の家には子供が舞生しかいないことだった。どうして? と聞くと、両親は顔を見合わせて曖昧に微笑む。
『舞生は兄弟が欲しいの?』
『おうちで一緒に遊びたいのよ』
 舞生がそう訴えると、父は笑って舞生を膝に抱き上げた。
『パパがいくらでも遊んであげるのに』
『だって、パパは朝になるとお仕事にいっちゃうんだもん』
 そう言った舞生の目を覗き込んで、父が楽しそうに笑う。
『パパがお仕事しないと、ママがおいしいご飯を作るためのお肉もお野菜も買えないよ。舞生はそれでもいい?』
 ふるふると振った舞生の頭を、父は赤ちゃんをあやすようにぽんぽんと撫でた。
『舞生がいい子にしてたら、そのうちね』
 そのうち、というのはいったいいつのことなのだろう? 大人が使う言葉は、小さな舞生には時々とても難しいのだった。
 舞生が両親に連れられて遊びに行くのとは逆に、舞生は家にいて友達が友達の両親に連れられて遊びに来ることもあった。そういう時、舞生はおもちゃ箱の中から自分のままごとのセットやお人形を出してきて、大人たちがお茶を飲んでいるリビングで友達と遊ぶ。
 遊びに来る子供達は舞生と同じくらいか、もっと小さな赤ちゃんなのだが、ある時、アキがやってきた。アキは舞生の友達よりうんと大きな男の子だったが、両親たちと比べるとまだまだうんと小さな男の子だった。それが不思議で、母のスカートの陰に隠れてじーっと見ていた舞生を、アキもまた不思議そうな顔で眺めていた。それがふたりの出会いだった。
『この子はうちの子供で、舞生ちゃんっていうのよ』
 母が笑いながら、舞生をスカートの陰から前に出るように促す。
『舞生ちゃん、ご挨拶しようね』
 おずおずと出てきた舞生の肩を、母は両手で守るようにそっと押さえた。
 こんにちはと、舞生は小さく言った。アキも同じように細い声でこんにちはと言った。母はそのまま膝を折ると、アキと視線を合わせた。
『舞生ちゃんもレイナちゃんと同じで、兄弟がいないの。もしよかったら、舞生のお兄ちゃんにもなってくれないかな?』
 アキはぱちぱちと、綺麗な緑の目を瞬いていた。彼が返事をするより早く、舞生はぐるりと振り返って母に尋ねた。
『舞生のおにいちゃんなの?!』
『仲良しになれたら、みんなのお兄ちゃんだよ』
『じゃ、仲良しする! おにいちゃん!』
 喜色満面で飛びついてきた舞生のことを、アキは受け止めてくれた。それ以来ずっと、舞生は彼をおにいちゃんと慕っている。
 彼に複雑な事情があることに、舞生は気づいている。大人達は舞生が小さいから、まだ何もわかっていないと思い込んでいるが、子供は小さいがゆえに大人よりうんと敏感に何かを感じる時があるというのを知らないのだろうか。もちろん、舞生はその「複雑な事情」が何から来てどういう原因なのかは、大人の思うとおりこれっぱかしもわかっていないのだけれど、その事情はたくさんの人が、しかも大人ですらうんと泣いてしまうような悲しい悲しいものだということは大人以上にわかっていた。そんな状況に立たされながら、アキが両親のことを舞生が自分の両親に思うように大好きでいることも。
 とにかく、舞生が悪かったのだ。何であの行動が悪いことになったのかは今でもわかってないし悪いと思っていないが、それでもきっかけは舞生だった。
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