桜の雨が降る------5部1章9

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(あたしも打算なのかなあ……)
 ベッドの中で、優桜は明水のことを考えていた。
 初めて会ったのは生まれたその日、病院で。木枯らしの吹くような寒い冬の日に、明水は母親に連れられて、生まれたばかりの優桜に会いに来てくれたのだそうだ。
 けれど、当たり前ながら優桜はその時のことを覚えていない。優桜の記憶の、いちばん最初の明水は中学生だった。彼の中学校の入学祝いに優桜は両親に連れられて出かけた。その時の明水は眼鏡と学生服がとても似合って格好良かった。
 中学生なら反抗期真っ盛りのはずなのに、明水は優桜が遊びに行くと決まって相手をしてくれた。優桜にとっての明水は何でも知っているお兄ちゃんだった。優しくて大きくて頼りになる従兄のことが、優桜はその頃から大好きだった。
『あたし、大きくなったら明水にいちゃんのおよめさんになる!』
 最初にこう言い出したのはいつだったか。
 周囲の大人達が笑うなか、父だけが憮然としていた。その頃は理由がわからなかったのだが、後に母が笑いながら話してくれたところによると「お父さんのお嫁さんになるって言ってくれなかったのに甥っ子に立場を取られた……」ということだったらしい。
 明水本人は複雑そうな顔で頭を掻いていた。でも、そんな発言の後も優桜を邪険にしたり遠ざけることはなく、いつもの優しいお兄ちゃんだった。
 小さな子に優しくしてくれる人を好きにならないはずがないじゃないか。だから打算じゃない。断じて違う。
 優桜はその頃、明水に会う度にプロポーズしてうるさくまとわりついていた。それを面白がったのか息子への助け船だったのか、伯母がある時、優桜にこう提案した。
『優ちゃん、一度明水の奥さんをやってみる?』
 優桜はふたつ返事で頷いたのだが、それは子供の遊びにしては予想外に本格的だった。伯母はまず、優桜に明水の部活の野球道具一式の片付けを指示した。ユニフォームをたたみ、スパイクをきちんとバッグに入れ、バットとグローブ、ボールといった道具一式を階段を使って明水の部屋まで運ぶ。当時の優桜は小学校にも上がらない子供であり、この時点でかなりの難行だった。ユニフォームはしわだらけになり、スパイクはバッグからはみ出している。バットは重くて長くて扱えない。結局、明水が自分で持って行くことになった。
 これで終わりではなく、伯母は明水のぶんのご飯をよそって持って行ってねと優桜に次なる仕事を振ってきた。ご飯をよそうくらい簡単だよ、と調子を取り戻した優桜だったが、慣れない台所は難しく、味噌汁を台所の床にこぼしてしまい、明水が夕飯をお預けにして掃除をする羽目になった。
 優桜も涙目になり、ごめんねごめんねと言いながら手伝った。その時も明水は怒るでもなく「まだユウには少し早かったね」と笑ってくれた。火傷をしなかったかと心配までしてくれた。伯母と、事の成り行きを見ていた母からは代わる代わるに頭を撫でられた。「ちょっと難しかったかな」「お嫁さんになるのはおうちで練習して、大きくなってからにしようね」と。
 それ以来、優桜が頻繁に明水にプロポーズすることはなくなった。両親たちは、子供心の憧れだったのだろうと思っているようだった。
 そんなことはない。優桜の明水への想いは、年と共にどんどん強くなった。優桜は明水のことが大好きだ。明水の隣を歩くのにふさわしい大人になりたいと願って、そのためにどんな努力も惜しまなかった。
 けれど、自分が明水を支えられるかと聞かれると、疑問になってしまうのだ。
 今ならユニフォームにアイロンだってかけられるし、スパイクの紐の調節だってできる。バットとボールとグローブは一気に運べるし、味噌汁だって作れる。
 それでも、まだ足りないのだ。
 何歩も先を行っている明水だから、姿の見えるところまで追いつくことはできてもその先が遠い。明水には優桜では見えていない物が見え、彼はそれを簡単に手を伸ばして片付けてしまう。大丈夫だよ、何も心配しなくていいよとそう言って。
 優桜にとって、そのことはひどく心地のいい物だったが、今はそうではない。背伸びをしない今の自分がすることを喜んでくれる人たちを知ってしまったから。
 明水は優桜の助けを必要としない。そう思うと、優桜は切なくなる。
 兄ちゃん。明水兄ちゃん……。
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