桜の雨が降る------5部1章8

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 ウッドは事務所の勤務時間中は優桜たちを中に入れることはしない。仕事をしていない人がまざると、自分はもちろん他の従業員も集中できないからというもっともな理由がある。
 事務所は基本的に定刻までで、残業がない。基本的にと言ったのはウッドだけはかなり遅くまでいることが多いからだ。その代わり、本人が仕事を抱えていて優桜やメリールウが横で騒ぐのは気にならないようで、終業の時刻が過ぎた後の出入りは自由である。夕ご飯を持ち寄って食べたり、優桜は端末を使って調べ物をさせてもらったりする。人払いがされていることを確認して、エレフセリアの話をしたりするのもこの時だ。
 夕刻以降に訪れると、いつもならウッド以外の従業員は既に帰宅しているのだが、その日優桜がメリールウと一緒にドアを開けたとき、室内には珍しくまだ人が残っていた。
「クラウス、こんばんはー」
 その人物にメリールウが気安く声をかける。優桜は慌てて頭を下げ、お疲れ様ですと言った。
「メリールウ。優桜。お疲れ様」
 ウッドと話していたクラウスが僅かに口元を緩めて応じてくれた。
 彼は法律事務所の所員であり、食堂の現場責任者を兼ねている。優桜たちにとっての直接の上司は本来ならば彼になる。
 クラウスは取り立てて特徴のない中肉中背の男性で、ウッドより色の濃い金髪をしている。優桜がいちばんよく見る金色の髪の人はみんなクラウスのような色なので、ウッドの髪の色素が極端に薄いのかもしれなかった。ウッドの髪は脱色でもしているのではないかと思うくらいに色がない。
 クラウスはウッドより少し年下とのことだったから、明水と同じくらいなのだろう。性格にも取り立てて特徴的な部分はないが、ウッドが食堂と事務所の作業を任せているだけあって有能だ。メリールウのことも他の社員と同じように扱っている。ミスがあれば叱るし、いいところはきちんと褒める。
「それじゃ、この時間にホテルのロビーで」
「遅刻しないでくださいね」
「ありがとう。でも大丈夫だよ、こんな大事なことで寝過ごすわけないからさ」
 大事なことですかと言葉を反復し、クラウスが可笑しそうに笑う。少しの後で、クラウスは「今日はこれで失礼します」と自分の机にあった鞄を持ち、優桜とメリールウにも挨拶して帰って行った。
「待たせたな。夕飯、今日は持ってくるって言ってたっけ?」
「うん!」
 メリールウは子供のようにこっくりと頷いて、紙袋をウッドに差し出した。二人で作った野菜のおかずが中に入っている。
「それじゃ、オレのぶん取りに行ってくるか。 三人分でよかったよな」
「あれ、サリクスは?」
 今日も来ると言っていたように思ったのだが。
 優桜の問いかけに、ウッドは何事もなかったように「今日はアイツこないって」と言った。
「そなの? 会えると思ってたのにさびしーなー……」
 メリールウの声はしょげていた。いつも元気に広がっている赤い髪が、心なしか一緒にうなだれたように見えた。
「講座が夕方ギリギリまでだから、終わったら仕事に直行するんだってさ」
 ウッドは上着に袖を通しながら言った。
「コーザ? コーザってなに?」
 メリールウが赤い目を丸くする。
「講座……って勉強するあれ?」
 優桜も目を丸くする。講座の意味はわかるが、どう見ても遊び人のサリクスと、勉強をする講座は結びつかない。
「斡旋所が主催してる面接講座に運良く滑り込めたとかそんな感じだったけど」
 ふたりがきょとんとしているのを気にもかけず、ウッドは上着を着終えるとすたすたとドアの方に歩いて行った。
「面接?!」
 その言葉に返答はなく、ぱたりと軽い音を立ててドアが閉まる。続いて螺旋階段を降りる音が小さく小さく聞こえてきた。
「面接……って仕事の?」
 優桜はメリールウと顔を見合わせた。優桜と目が合うと、メリールウはにこっと笑って優桜の手を握ってきた。
「サリクス、いいお仕事が見つかったのかな? よかったー!」
「いいお仕事、って……」
 既にサリクスは仕事に就いているのではなかっただろうか? そう口にしようとして、優桜は思いとどまった。繁華街の用心棒は、おそらく一生の仕事になるようなものではないように思ったから。
 優桜の感覚で言えば、サリクスはまだまだ年若い。いくらだって仕事を選べるだろう。しかし、ガイアは年齢に関する考え方は現代とかなり異なっている。もしかしたら遅いくらいなのかも知れなかった。
「サリクスって、今の仕事好きじゃないのかな?」
「そんなことないと思うよ?」
 お茶の準備をすべく給湯設備の方に歩き出したメリールウが言う。
「サリクスはいつも楽しそう。だけど……たまに悲しそう」
「え?」
 優桜の知る限り、サリクスはいつも笑っている人だった。気楽そうな、人なつこい笑顔が優桜がいちばん最初に思い出すサリクスの顔だ。
 優桜の中で、怒りや悲しみの感情がサリクスに結びつかない。
 振り返ったメリールウは、優桜の想像とは裏腹に笑っていた。
「だから、別のお仕事みつかったならよかったなって思うの。繁華街を出て、普通の暮らしが出来るんだったらそれはサリクスがいちばんやりたかったこと」
「繁華街って、普通の暮らしではないんだ」
 普通の暮らしというのが、昼間に仕事をして夜に帰宅し、安定した収入と休日があることを指しているなら、確かに繁華街の暮らしは普通のものではないだろう。昼夜は逆だし労働条件は悪い。ウッドのところにも相談に来る人が何人もいるのを優桜は知っている。
「あたしは、繁華街のこと大好きだよ。ユーサは?」
「うーん……」
 優桜は少し悩んでしまった。
「法律事務所は好き。繁華街を歩くのはまだ、ちょっと怖いかな」
 少し迷ってから、優桜は率直な気持ちをメリールウに告げた。
「一緒に行ったらだいじょぶ? あたし、ユーサと一緒に行きたいトコ、まだまだうんとあるよ。サリクス……は忙しかったら、ウッドに来てもらお」
 そこまで言ったとき、包みを抱えたウッドが事務所に戻ってきた。予約をしてあったのか、そんなに時間はかからなかったようだった。
「オレがどうした?」
 口元を緩めたウッドのほうにとてとてと駆け寄ったメリールウが、彼を見上げて言う。
「繁華街で遊ぼって話よ。ウッドは次のお休みはいつ?」
 ウッドは微笑むような、それでいて困ったような笑顔でメリールウを見下ろした。
「週末だけど。けどクラウスと出かける約束だから」
「さっきのお話?」
「ああ……見合いの話がきてて」
「えっ」
 優桜は絶句した。
 こういうことがどのくらいの速さで進むか優桜は知っているわけではない。ガイアと現代が同じかどうかもわからない。それにしても早い気がする。この前話題になってからそんなに経っていないように思ったのだが。
「ウッド、それ本当?!」
「冗談を口にするほど暇じゃない」
 それは確かにそうだろうが。
「ウッドだってもうトシなんだし、いい人いるんだったらね」
「もうトシ……って」
 確かにウッドはメリールウと優桜から見れば二桁の単位で年が違い、女子高生から見ればおじさんという括りでもおかしくない。しかし、三十歳前の人をもうトシと呼ぶのは何かが違う気がする。優桜の場合は従兄たちの年齢と近いからそう思う気持ちが強いのかも知れないけれど。
「相手はどんな人?」
「写真見る限りおとなしそうな人だったな。自転車操業の弱小事務所でも、収入があればいいってことらしいよ」
 ウッドは額に落ちてきた髪を煩わしそうに払った。
「貴族って言っても、昔と変わらぬ贅を尽くした生活ってのはなかなか厳しいらしいな」
「自分に有利な法律ばっかり考えてるくせに……」
 ガイアにおける格差は現代よりさらに過酷だ。支配層にかなり権力が傾いていることが原因のように優桜は思える。現代と変わらないような街並みなのに、そういう部分に関しては進歩していないようなのである。
 そのことが当たり前の物として受け入れられているから、優桜は不思議になる。内戦という身近で命に差し迫る脅威のせいで、みんな長いこと制度がおかしいことに構っていられなかったのだろうか。
 内戦が終わってから二十年近く経っていると優桜は聞いた。そうして時代が落ち着いてきたから、だからウッドも「エレフセリア」なんていう物騒なレジスタンスを主催できるようになったということなのだろうか。
「でも事務所の人になったら、権力体制を潰すってことでしょ? いいの?」
 エレフセリアの活動が成功したら、貴族の支配体制はなくなるのである。
「特権がなくても金があればいいってあたりだろ? 自分さえ今の暮らしが出来れば他の奴らがどう落ちようがどうでもいい」
「それでいいんだ? 結婚ってそんなに打算的なもの?」
「じゃ、聞くけど。お前にとって結婚って何さ?」
 予想外に反撃されて、優桜は目をぱちぱちさせた。
 改めて考えたことがなかった。白いウェディングドレスで教会でみんなに祝福されて陽の当たる新居に住んでやがて愛の結晶が……というのが優桜の中でぱっと浮かんだイメージだったが、これは答えではない。
 それが意味することって何?
「……愛した人と一生一緒にいること」
 優桜の中でいちばん真っ当に聞こえる言葉だったが、ウッドは失笑した。
「そんなの結婚しなくたってできるじゃないか」
「籍を入れて、社会的にきちんと認められる必要があって」
「きちんと入籍しないと仕事先や親戚の間で評判が悪くなるっていいたいの? なんだ、それだって打算と大差ないじゃないか」
 言い込められて、優桜は一言も言い返せなかった。
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