桜の雨が降る------5部1章7

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 その日、サリクスがふらりと事務所に足を向けてみると、カレンダーは休日だというのに窓に明かりがついていた。
 螺旋階段を二階まで上がり、申し訳程度にノックしてからドアを開ける。窓際の席にウッドがいて、彼は机の上に二列に積んだ用紙と綴り紐を使って何かをしているようだった。用紙の山は片方だけがやけに分厚い。
「……何の用? 呼び出しはかけなかったと思うけど」
「用がなきゃ来ちゃいかんの?」
 サリクスは近くのデスクから椅子を引き出すと、ぐるりと回して背もたれを抱えるような格好で座った。ウッドはその様子に眉をひそめたが、紐を持ったままの手で天井を指した。
「メリールウと優桜なら食堂の奴らと一緒に出かけてるぞ。五番倉庫だったかな」
 その倉庫は、食堂の常連客の持ち物だった。この近所に拠点を構える中規模の衣料問屋で、社長も社員もこの食堂を利用している。その関係から従業員用の優待券をわけてもらったので、食堂従業員の希望者に配ったとのことだった。
「へー。いいなそーゆーの」
「よくないよ。結局それで売掛けごまかされてるんだし」
 ウッドはため息をつくと、書類を綴じ始めた。
「それ何?」
「法規書の追録」
 ウッドは別の紙を見ながら、自分の眼前に積み上げた用紙の山のうち、量が多い方から文庫本程度の量の束を引き抜いた。それはもう片方の山の量と一緒だった。
 ウッドは抜いた紙と積んであった紙を入れ替えると、綴り紐で綴じ始めた。
「え、自分で本作ってんの?」
「法律が変わるたびにその部分を差し替える形式なんだよ」
「うえ。メンドクサ」
「確かに面倒なんだが、これだと新しい本買わなくても常に最新になるって利点があるからなあ。ちょこっとだけ違う本が増えられても金かかってかさばるだけだ」
 ウッドはぼやきながらも手早く書類を綴じていた。作業に慣れているのだろう。普通、代表者という立場なら事務仕事などしないはずだが、ウッドはそうではなかった。従業員の勤怠の管理など、いくつかの庶務を彼が直々に行っているのをサリクスは知っている。サリクスは自分も時間の使い方は上手い方だという自負があるが、ウッドがどんな方法で通常の仕事とエレフセリアに加えて、雑務の時間をひねり出しているかは想像がつかなかった。休日があるのか本気で疑わしい。
「差し替えてくれるサービスはあるけど、そんなん頼むゆとりはないし」
「オレがやったげようか? ヒマだし。休日出勤してるくらい忙しいんなら、仕事の手が足りないんだろ?」
 冗談めかして手を差し出す。
 内心はわりと本気で、繁華街でない場所で仕事が出来るならそちらのほうに移りたかった。実は、何度かウッドに法律事務所で働かせてくれと頼んだことがある。
「またその話か」
 ウッドはやれやれと冷めた息をつくと、綴じ終わって本に戻った書類を机の隅に押しやった。
「確かに人手は足りないけど、お前に任せる仕事はない」
 声は冷め切っていて、サリクスを見る目も同じくらいに冷たかった。この話題を出したときの、いつもの彼だった。
「ずっと言ってるだろう。信用第一の商売だって」
「はっ。学もない田舎者は信用できんって?」
「ケンカに使う文句は自己紹介だって言うよな」
 ウッドは冷たい目をしたまま、面白がるように笑った。
「……何だよそれ」
「そのままの意味だけど? それがわかんないようじゃ優桜をからかうのは止めた方がいいぞ? 確かにアイツはガキだけど、頭の回転はいいし相当いいとこのお嬢様だ」
 確かに優桜はまだまだ子供で、世間知らずだ。しかし、そこを割り引いてよく見ていれば、彼女が頭が良く物覚えも早いこと、努力家であることがわからないはずがない。
 そして、優桜には見る人をはっとさせるような、凛とした品格がある。何がどう違うのかを言い表すことは難しかったが、優桜の振る舞いを見ればそのことは一目でわかった。サリクスやメリールウのような繁華街の住人がいくら真似たところで決して身につかないものを優桜は持っている。
 おそらく、自分で手に入れたものではないだろう。優桜を庇護していた両親や親族から、それと知らずに与えられたのだろう。どれだけ大きな恵みであるか、優桜がわからないまま。ただ当たり前の物として。
 今目の前にいるウッドも同じなのだと思う。普段はとらえどころなく振る舞っているが、改めるべき時にはウッドはその場に相応しい態度を的確に選び、実行することが出来る。その場で最も守るべきものが何かをわからなければならない立場で育てられた人間だと言うことだ。
 サリクスはウッドのことをよく知っているわけではないが、資格職の弁護士であることから高等学校を卒業していることがわかる。ガイアの義務教育は初等学校までで、上の学校である高等学校に進学しようとすると、一般庶民ではとても手が出ないような費用がかかる。地方貴族の子弟並の財が必要となる。奨学生になるという形で免除の手段はあるのだが、選抜試験には家庭教師をつけてもらえる余裕がなければまず合格しない。もしくは、本人が相当優秀であるか。
 ウッドの両親が裕福な人たちだったことは、サリクスは風の噂で聞きかじっている。二人とも既に亡いが、彼の両親は息子に高等学校に進学し、その後自分で中央首都に事務所を持てる程度の資産を遺したのだという。羨ましい話だ。
 自分が選んだ境遇だし、生家に不満があるわけではない。内戦とその後の厳しい時代にありながら、自分たち兄弟を誰一人欠かすことも飢えさせることもなく育ててくれた両親と周囲には感謝している。
 それでも……どうしようもなくやりきれなくなる時がある。
「お前にはわかんねえよ」
「ああ、わからないな」
 ウッドは口元を歪めた。
「大層な御説を掲げてるわりに実行できないんじゃなあ。だからお前は口先三寸の客引きどまりなんだよ。自分が小馬鹿にした相手に縋るとか」
 さっと、サリクスの頬に朱が昇った。
 ただただ腹が立って仕方がなかった。何も言い返せず睨みつけるだけになったのは、言葉がそれだけ痛かったからだ。
「……見てろよ。絶っ対お前に頼らず真っ当な就職してやる」
 思わず呻くようにして言った言葉だったが、本心でもあった。いつまでも楽しく遊んでいられないのはわかっているから。
 ウッドはこらえきれないといった様子で、口に手を当てて笑った。
「やめとけ。それは盛大にコケる奴の常套句だ」
 覚えてろよと言おうとして、それもやはり定番の台詞だとサリクスは思い直した。けれどそれで腹立ちが紛れるわけもなく、サリクスは乱暴に椅子をデスクに押し込み、ことさら音を立ててドアを閉めて事務所を出て行った。
 それも定番の態度だったと気づくのは、道を歩いて冷たい風に頭を冷やされてからである。
 取り残されたウッドは未だくすくすと笑いながら、凄い勢いで叩きつけられたドアを見ていた。
「おーおー。余裕ないって言ってるだろ。ドア壊れたら請求書送りつけるぞ」
 サリクスは面白い奴だと思う。自分が差し出したカードを的確に引き、想像したとおりに踊ってくれる。メリールウもそうだ。こんなに騙されやすくて大丈夫かとついつい心配してしまう。
 だからこそ今、表に引っ張り上げるわけにはいかないのだ。繁華街に精通した意のままに動かせる情報収集人がいるのといないのとでは、今後の展開に大きく関わってくる。
「普通の女なら、絶っ対お前の方に着いていくよ」
 自分が目的を思わず忘れそうになるくらいにいい奴らなのだ。
 だからって好きになったわけじゃないぞと、心の中で付け足した。利用しているだけ。優桜も、メリールウも、サリクスも。
 そのサリクスは西部の寒村地帯の出身で、貧しい地方の例にもれず、実家は農作業の働き手にするための子だくさん一家だ。成人まで育ち上がってしまえばもう実家からの援助は受けられない。繁華街で生きているのであれば社会的立場も信用もないに等しい。遊び人という性分もある。
 それでも、ただひとりの相手を決めて心底愛し抜く覚悟を持ち、相手と真っ当な暮らしを立てて行こうという努力ができる人間であるのなら、財や家名よりそちらのほうが貴重で素晴らしいことだとウッドは思うのだ。
「……ホント、なんでオレなんかを選んだんだろうな」
 小さな呟きが誰もいない事務所に落ちた。
 理由は知らない。もう絶対に知ることはないし、知りたくもなかった。
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