桜の雨が降る------5部1章3
優桜にとって、ウッド・グリーンはどこか得体の知れない人物でもある。
法律事務所の所長で弁護士。法律事務所以外に同じビルの一階に入っている食堂も彼が経営している。四階建てのこのビルそのものがウッドの持ち物なのだという。
優桜が単純に凄いと言ったら、親からの貰い物だから凄くない、どうせならもっといい位置に建てればいいのにとぼやいていた。彼の家族について聞いたことがあるのは、そういえばこれだけだった。貰い物という表現は優桜が普通に考えると遺産なのだが、どうなのだろう。家族どころか、優桜はウッドがどこに住んでいるのかを知らない。よく考えれば年齢すら本人からは聞いていない。彼が二十八歳だと教えてくれたのはメリールウである。
自分の実質的な保護者で、ほぼ毎日顔を合わせて一緒にご飯を食べる相手だというのに、優桜はウッドのことをまるで知らないのだった。
その日、優桜とメリールウはウッドと夕食を一緒に食べる約束をしていた。ウッドと一緒に暮らしているわけではないのだが、仕事が忙しい彼は夕方従業員を帰した後、事務所で簡単な夕食をとってからふたたび仕事机に向かっていることが多く、事務所は優桜たちの住んでいるアパートの二階に入っていて行き来がしやすいため、週に数回ほど事務所の来客スペースで一緒に食事をする。メリールウはご飯は大勢で食べた方が楽しいと笑っていて、優桜は大勢いた方が持ち寄って美味しいものをたくさん食べられるとこっそり思っている。
ウッドは食堂に持ち帰れる料理を何種類か注文していることが多い。食堂が本人の持ち物なので、メニューは把握しているし注文も自由自在だ。持ち帰りでは扱っていないスープを特別に魔法瓶に詰めさせたりと職権乱用も日常茶飯事で、いいのかなと思いつつ、その恩恵で美味しくあたたかいものが食べられる優桜は文句を言えなかったりする。
優桜たちは食堂に注文する時もあるが、メニュー以外の物が食べたい時もあるし、持ち帰りとはいえ自分で作った方が安価だという経済的な理由もあって、アパートで自炊して事務所まで持って行く時も多かった。食堂の昼の勤務が終わったあとで、材料を調達し二人で料理をする。といってもアパートの台所はひとりが立つのがやっとの狭さなので、基本的にはメリールウが采配をふるっている。一人暮らしが長いせいなのか、メリールウは意外にも料理上手だ。
「……あれ、ウィンナーもハムもないや」
その日、単身者用の小さな冷蔵庫を覗きながら優桜は言った。サンドイッチを作る計画だったのだ。お店のサンドイッチは薄いハムとチーズがパンの中心にぽっちり入っているだけだから、せめて半分くらいは具が入ったものが食べたいと思ってのことだった。
「食パンも朝ごはんで食べちゃった? 買ってこないとだめ?」
「えー? 大丈夫だよ」
メリールウは優桜を押しのけるようにして冷蔵庫の前に立って、中身を確認し始めた。小さな冷蔵庫だし台所はひとり立つだけでいっぱいいっぱいになる狭さなので、優桜はおとなしく場所を譲って後ろから覗きこむ。
「お肉あるからヘーキヘーキ。食パンないけどポスタルの丸パンなら買ってあるよー。塩でもソースでも好きな味付けして、炒めて挟んじゃう! キャベツもタマゴもあるし」
彼女の言うとおりで、冷蔵庫の下の方にまだまだ大きいキャベツがころんと転がされていて、タマゴは優桜の知っているようなパックではなく、中ほどの段にやわらかそうな布が敷かれた籠があって、その中に三つほど収められていた。
「レタスは買ってないっけ?」
メリールウはうんと言って頷いた。
「キャベツのほうがいろんなことに使えるし、二つだと余っちゃう。たくさんはいらない」
優桜はメリールウと暮らしてみて、初めてキャベツとレタスの使い方の違いがわかった。今まではどちらもハンバーグの付け合わせとしか思っていなかったのだが、キャベツはそれだけではなく炒め物やスープ、それに漬物にも使える。レタスだってもちろん使えないことはないのだが、保存できる期間がキャベツより格段に短い。少ない人数の家で大きいレタスを買うと余らせてしまうのだ。
「でも、今はユーサが一緒だからだいじょぶだね」
メリールウはそう言って笑った。
「今度はレタス買ってみよっか。ボウルにいっぱいサラダを食べよう!」
言いつつ、彼女の褐色の手はてきぱきと動いて冷蔵庫から材料を出し、コンロにフライパンを乗せる。優桜のよく知るガスレンジではなく、クッキングヒーターだった。
ガイアは現代ととてもよく似た世界だが、違う部分も多々ある。中でもガスが生活に密着していないというのは大きな部分だった。
ガイアで中心となっているエネルギーは石油でも石炭でもなく、力包石(パワーストーン)だ。見た目は普通の石だが、エレクトラという特殊な装置にかけることで電気エネルギーを発する。この装置は設備単位で取り付けられていて、このコンロにも組み込まれている。浴室給湯も同様で、ガイアはこの装置があるためガスを必要とせず、発電所と送電線もない。電線がない空は優桜にとって奇妙に広かった。
「ユーサ、お肉炒めててね」
メリールウはフライパンを優桜に任せると、自分はまな板と包丁とキャベツを持ってダイニングテーブルに行き、器用にキャベツの千切りを始めた。日が傾き始めた台所で、優桜が肉を炒める音とメリールウの使う包丁の音が二重唱をしていた。
「これでサンドイッチ食べれるよ。ユーサはお肉も野菜も好きだから両方挟もう。そしたらおいしいよっ」
「メリールウって、お母さんみたい」
「んー? ユーサのママにはなれないよ。ユーサ大きすぎるもの」
本当の優桜の母も、優桜が練習でお腹を空かせて帰ると、よく優桜の好きなご飯を作ってくれた。母が作る食事が優桜は大好きで、幼い頃は両親の仕事が忙しくて外食やお総菜続きになると拗ねて膨れていた。優桜が知っている母の料理はどれも美味しかったが、父に言わせると昔の母の料理は「とても人間様の食べるものではなかった」らしい。父にそうからかわれると、母は笑いながら「でもお父さんは食べてくれたよね」と返していた。
母が作ってくれるご飯を食べられなくなってだいぶ経つ。ガイアに来るずっと前から、優桜の母は入院していたから。
どうして、母の思い出はこんなに懐かしく優しいのだろう。母は優桜を裏切っていたのに。人を傷つたばかりか、その罪を償わずに隠し通し、普通に笑いながら暮らしていた。それは人間として許せない卑劣な行為だと優桜は思う。
それなのに、どうして優桜の中の思い出は全て恨みや憎しみに変わってくれないのだろう。記憶の中の優桜も父も母も、本当に幸せそうだ。
「……絶対に許さないんだから」
呟くと、メリールウがきょとんと不思議そうな顔をした後で、慌てたように手を振り回した。
「ユーサ、ユーサフライパン! こげちゃう!」
「あっ」
優桜は慌ててフライパンを持ち上げた。
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