桜の雨が降る------4部3章8
「あなた、貴族なの?」
優桜がそんなことを言ったのは、あらわになった騎士の顔がパルポネラのように端正だったからだった。
同じというわけではなく、名工の手による彫像や人形のように美しく調っている部分が似通っていた。まるで氷でできた彫刻を見ているかのようだった。
ただし、騎士の瞳の色は蒼ではなく緑であり、優桜を見る目は氷よりさらに冷え切っていた。
「……ペンダント」
騎士は唸るように声を出した。
「何でお前が持ってるんだ。それは、絵麻おばさんの」
「絵麻おばさん?」
唐突に出された名前に、優桜はきつくしていた表情を緩めた。
「何で? なんであんたが絵麻って」
「お前はフォルステッドを引っ張り出すんじゃなかったのか」
「それじゃ、やっぱり深川絵麻がフォルステッドなのね?」
この言葉に、騎士は明らかに表情を変えた。彼は立ち上がろうとしたが、優桜はさせまいとして剣をぐっと騎士の前に押し出した。騎士が動きを止める。
このままあと少し前に押せば、騎士を傷つけられる。そうすれば、完全に反撃の芽を摘むことが出来る。こいつは深川絵麻のことを知っている。聞き出して、それから警察に引き渡して逮捕してもらって、リサに保証を与えることもできる。頭ではそうわかっていた。
それなのに、優桜はそれ以上剣をふるうことが出来なかった。
手に親しんだ竹刀と使い勝手はまるで同じだったはずの剣が、今は奇妙に重く感じられた。手ががくがくと震えているのは、重みに耐えきれなくなっているからだろうか。
優桜は慌てて、いつものとおり添えるだけにしていた右手に力を入れた。
剣の震えはそれで止まったが、今度はいつものように振り上げることが出来なくなってしまった。
張りつめた空気を、烈しい車のクラクションが切り裂いた。振り返った優桜の視界に、苛立った運転手の顔が見えた。人混みが解消される気配はない。
このままアクセルを踏まれてしまったら――。
優桜の戸惑いを看破したように、騎士は座ったまま後ずさる形で優桜の剣の間合いから逃れ出た。そして立ち上がると、彼は身を翻して街角に消えていった。
「あっ、ちょっと!」
追いかけようとして、優桜はクラクションの音に意識を引き戻される。烈しい音が優桜を余計に焦らせる。
タイヤが路面を擦る嫌な音がした。
迫る惨劇を見たくなくて、優桜は目を閉じようとして――狭めかけた視界に何かが舞っていることに気づいて慌てて目を開けた。
いつの間にか、群衆の頭上にひらひらした紙が舞っていた。舞うというよりは、浮くといった方が正確かも知れなかった。それはひとつだけではなく、無数に浮き上がり、頼りなく揺れていた。
人混みの中の誰かが空を指さし、それがどんどん伝播し広がっていく。皆が漂う不思議な紙を見上げようとしたとき、それらは角度を変え、いっせいに急降下した。車に向かって。
紙切れの多くは車に当たる前に地面に激突したが、何枚かはガラスにヒビを入れ、タイヤを切り裂いた。悲鳴がして、車から貴族がまろび出てくる。
優桜は呆然とその光景を見ていた。
「……何なの?」
ひとつわかったのは、もう貴族の車に群衆に突っ込む力も、書類を議会に届ける力も残っていないということだった。
貴族の車に体当たりした紙は、今はもう浮くことなく、風に吹き散らされて優桜の足下まで飛んできていた。拾い上げてみると、それは優桜が配るように指示したチラシだった。
「?」
裏返してみたが、特に目新しい何かが書かれているわけでもない。慌てて何とかしようとしている貴族が見え、救助しようとしている群衆の外側にいた人々が見え、先ほどの光景を疑問に思いつつ、配られ始めたコーヒーに手を伸ばす遠くの人々が見え、その流れに逆らうようにしてサリクスとメリールウがこちらに歩いてくるのが見えた。
「ユーサ!」
メリールウが腕を広げて、優桜に飛びついてくる。ひろがった赤い髪に視界が遮られる前、肩にかけていた手をあっさりと外されてしまったサリクスが苦笑いするのが見えた。
「どうなってるの?」
「聞いて聞いて! サリクスってすっごいのよ」
「聞きたいけど、ここではちょっと」
優桜はメリールウを貴族の車の方に促した。彼女は「ああ」ともらして手をぱちんと打ち合わせると「それじゃ、帰ろっか」と優桜の手を引いた。
「帰っても大丈夫?」
「チラシ配りは終わったし、女の子たちにも解散ーって言ってあるし、スタンドの方も終わったら撤収っつってあるし何とかなるっしょ」
それを聞いて、やっと優桜は肩の力を抜くことが出来た。
「お疲れさん。がんばったな」
サリクスに頭をぐしゃぐしゃと撫でられて、優桜はようやく、少しだけ笑った。
久しぶりに笑ったような気がした。
*****
「それじゃ、さっきのはサリクスがやってたの?」
法律事務所に戻り、ドアを閉めて周囲に関わりのない人がいないことを確認して、優桜はメリールウから事の次第を聞くことが出来た。
「うん。すっごいでしょ?」
メリールウはまるで自分のことのように得意げだ。
「……どうやって?」
いくら社交的でも、チラシを空に浮かせるなんてできない気がする。
「あ、あの群衆の中の友達に頼んで投げてもらったとか?」
「投げたくらいじゃ浮かないだろ」
同じくメリールウの話を聞いていたウッドが苦々しげに言う。
「これだよ」
サリクスは自分の手を顔の高さに掲げて見せた。
人差し指に、幅広の指輪がひとつ。サリクスはつけるアクセサリーの数がよく変わるのだが、この指輪だけは外さない。それは、指輪がサリクスの力包石(パワーストーン)だからだ。サリクスは重力を操る能力者である。
「能力ってこと? でも重力を増して押し潰すだけでしょ?」
「いつそれだけだって言った?」
「え?」
面白そうに笑っているサリクスの横で、ウッドが額を抑えていた。
「重力をかけられるってことは、逆ができてもおかしくないだろう。重力をなくして浮かせたんだよ」
「……ああ!」
それなら話の説明はつく。
「あんなに広かったら、動かせるのは紙切れくらいだけどな」
「それで、また重力を増して車に激突させたのね?」
だから、紙がぶつかっただけなのにガラスが割れたりしたのだ。
「全て俺のおかげ! っていいたいトコだけど、それは半分メリールウだな」
「?」
メリールウは小さく歌を歌った。それは低くゆっくりした旋律で、優桜はなぜか風にさらされた古い遺跡の姿を連想した。
「『こがれ郷』だよ。うんと昔に吹いた風の歌」
「えっと。風で飛ばしたってこと? でも、重くなってるのに風くらいで動かすのは無理じゃないの」
「だから逆だって。風で方向を変えさせた後に重力を増したんだろう」
ウッドは相変わらず、どうしようもないなと言いたげな顔で優桜を見ていた。
「それでよくタンカ切ったよな。全部考えてるんだと思ってたよ」
「……全然考えてなかった」
優桜は素直に首を振った。サリクスがそういうことができると知っていれば、ラジオの収録なんて噂を広げることも自分でタイヤを切りに行くなんて計画も立てなかった。
「そんなに必死になることなんてなかっただろう」
ぽつりと言ったウッドに、優桜は笑いかけた。
「やる前から諦めたらダメ! って言ったじゃない。ね、何とかなったでしょ?」
法案が議会にかからなかったのは、ここに戻る途中に街頭で聞いたラジオで既に速報として扱われていた。
もちろん、ここで終わりではない。優桜には想像のつかないような法律の裏の裏の手で議題にのぼるのかもしれないし、あるいはここで終わりになるのかも知れなかった。世の中にはまだまだ搾取の方法は溢れているのだから。
しかし、それでも今のところは終わりにしてよさそうだった。
「……そうだな」
ウッドは静かに言うと、視線を窓の外にそらした。
「思わず惚れそうだよ」
薄笑いで言ったウッドに、サリクスが冷やかすようにして肩をすくめて苦笑した。
「マジ? そっち系? そりゃ嫁さんも裸足で逃げだしたわけだ」
言外に年下趣味と言われたウッドは、否定するでもなく可笑しげに笑っていた。
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