桜の雨が降る------4部3章7
優桜はそこから必死になって、自分が立てた計画を実現させようとした。必要な情報も、用意しなければならない物も、クリアしなければならない条件もたくさんあった。優桜は仕事の合間に自分の足で場所を調べ、ウッドから今週分の給金を前借りする形で資金を用立てた。
期日までの時間は少なかったが、それを気にする間もないくらいに忙しかった。最後にラジオで当日の天気が快晴であることを確認すると、優桜は緊張する間もなくことんと眠りに落ちてしまった。
そうして、法案の提出される日はやってきた。
「サリクス! 全部配っちゃったよ!」
オレンジの派手な衣装をつけて帽子を被ったメリールウが、街角でボードを片手に書き込みをしていたサリクスに歩み寄る。彼も帽子を目深に被っていた。
「ルーは早いなあ。次こっちヨロシク」
笑みを浮かべると、サリクスは街角に積んであったボール箱のひとつを示した。中には優桜の手で突貫コピーされた二色刷のチラシが大量に入っている。
「これも全部配っていいんだよね?」
「ってユーサは言ってたな」
サリクスは言うと、街頭に視線を移した。メリールウと同じように鮮やかなで目立つ衣装をつけた女の子が数人、道行く人に笑いさざめきながらチラシを配っている。サリクスの知り合いや、知り合いの知り合いの女の子たちだ。
「コーヒーの試飲会でーす」
「もうすぐ向こうで始まりまーす。ぜひお運びくださーい」
チラシをもらった人の流れは、ひとつの方向に誘導されていく。そちらは結構な人だかりになっていた。今日はなぜか人通りが多いため、混雑し動きの取りにくい状況になっている。
「タダとかもらうって言葉にはみんな弱いよなぁ」
サリクスは苦笑いした。メリールウは元気に笑う。
「タダでもらうのって怖いことなのにね」
「あと、有名ななんとかさんが来る、ってのもな」
言うと、サリクスはもう一度苦笑いする。
「ユーサも、こんなのをよく考えついたもんだぜ」
*****
建物の陰に隠れ、優桜は緊張して通りを見守っていた。柱にかけた手が汗でじっとりと湿っていく。
どうなるかひやひやしていたのだが、人通りはいつもに比べてかなり多く、メリールウと、サリクスが声をかけてくれた女の子たちがチラシを配り始めると、だんだんと人が一箇所に集まりはじめ、道は人で埋まり始めていった。
信号がないガイアでは、車は突発的なアクシデントに対応するのが難しいはず。こう考えたのがきっかけだった。
ウッドはなぜかこだわっていたが、判が押される前に書類を紛失させるというのは、必ずしなければならないことではないのだ。書類が期限内に届かなければガイアの王庭議会は動かない。なら、判が押されていても書類が届かなければ同じこと。
車での移動中、急な人混みが発生すれば、車は立ち往生し動けなくなる。その間にタイヤをパンクさせてしまえば、後は足で運ぶしかなくなる。しかしどれだけ走っても、この位置から人の足では刻限までに王庭議会には届かない。人混みも邪魔になる。
手荒な計画だとはわかっていたが、優桜は顔の広いサリクスに頼んで、偽りのアルバイトをしてくれる人を確保してもらった。試飲を出しているコーヒー店は偽者の店舗で、現実には存在しない。参加者には申し訳ないことこのうえないが、中身は優桜がお湯を注いだだけのインスタント・コーヒーである。
ただ、これだけでは人の集まりに欠けるような気がしたので、優桜はもうひとつだけサリクスに頼み事をした。それはこのストリートで、人気のラジオ番組の公開街頭インタビューが行われるという噂を流して貰うことだった。
優桜は時間を確認し、大きく深呼吸した。ここまでは予定通りだけれど、肝心なのはここから。人混みを作るのが目的ではないのだから。優桜の行動次第では、罪のない人に犠牲が発生する。その事は優桜をいちばん悩ませた。できるなら避けたかったが、その避けたい気持ちはメリールウの痛々しい笑顔から逃げたいという気持ちに凄く似ていて――だから、優桜は自分の力で、その事態が訪れないようにすべきだと割り切ったのだ。
優桜は桜色の鞘の剣を握りしめ、周囲に目を配り耳をすませた。大きく深呼吸して、気持ちを落ち着けようとつとめる。
少し経った後、エンジン音が聞こえてきた。優桜は鞭のような鋭さでそちらを振り向く。黒く光る車がブレーキをかけて止まったところだった。道に広がっていた人の何人かは道を空けようとしたのだが、人が多すぎたため全てがそうはできなかった。
車はクラクションを鳴らしたが、人混みはほとんど解消しなかった。
優桜は素早くその車を確認した。間違いない。パルポネラから聞いたとおりの特徴の、書類を運んでいる車だ。
このざわめきの中でも聞こえるほどに、心臓の鼓動が烈しくなる。逸る心を抑えるため、優桜はもう一度、剣の柄を指が白くなるほど握りしめた。
後はこの剣でタイヤを切り裂いてしまえばいい。車が動かないようにしてしまわなければならない。そして同じくらいに肝心なのは、すぐに逃げ出すことだった。顔を覚えられてしまうとややこしいことになる。いつかの人みたいなミラーグラスでもつければ何とかなるのだろうか。
物思いにとらわれた優桜は、自分の後ろに人が来ていることに気づかなかった。
「やっと見つけた」
低い声と共にひやりとした冷気を感じ、優桜は驚いて振り向いた。
そこには優桜がまさに今思い描いていた人物が立っていた。
タイロッケン・コートを着た長身の男性。彼が異質なのは、コートの色がガイアの人が忌み嫌う黒であることと、顔に不釣り合いな大きさのミラーグラスをかけていることだった。そのせいで顔が隠され、表情は全く見えない。
『騎士』だ。
「……どうして」
鉱山の洞窟の中で会った人物。優桜にいきなり斬りかかってきた相手。あの場ですらかなり異常な存在だったが、こうして街の中で出会ってみると、彼はことさら異彩を放っていた。金色の髪だけは太陽の下、艶をもって輝いていたが。
「何で、どうして今……」
優桜は周囲を見回した。タイヤを斬りつけなければいけないのに、今絡まれている場合ではない。サリクスかメリールウに助けを求めようとしたが、優桜自身が作り出した人混みのせいで彼らの姿は見えなかった。
「姫君を元に戻せと言ったはずだ」
騎士は優桜の数歩先に立っていた。冷たい風が吹き抜けると、その手に氷の短剣が現れた。
「後にしてよ! あたし、今あなたのことになんか構っていられない」
優桜は威嚇するつもりで、鞘から剣を抜きはなった。あらわになった抜き身の刃は、優桜の目にはひどく暴力的に映ったが、騎士は引き下がらなかった。
「おれも、アンタのことなんかどうだっていい!」
空を切る音がして、氷の剣が振りかぶられる。騎士が腕を振り上げた動きで、彼の着ていたコートの袖がずれ、真っ白な手首がのぞいた。黒と白の対比の中に現れた鮮やかな色が優桜の目をひいた。
綺麗に編まれた糸でできたアクセサリー。
『手首に何かつけてたって』
『腕時計ではなくて、もっと紐っぽくて、リサはミサンガじゃないかって』
同僚の言葉が優桜の頭に浮かんで、すぐ消えた。
目の前の男の容貌を確かめてみた。
黒い服で金髪、身長百七十から百八十の二十代から三十代の男性……。
「あなた……義賊?」
「義賊? それがどうした?」
その言葉に、優桜は一瞬にして気色ばんだ。
時間が経ち、冷静になったつもりでも、優桜の中には鬱憤が溜まり溜まっていたのかも知れなかった。
法案が下院を通ってしまったのは、義賊の登場に浮かれたラジオが法案のニュースを流してくれなかったからだ。それがなければウッドがあれだけ苦労することはなかったし、パルポネラを関わらせることもなかった。それなら優桜が叱られたり蔑まれたりしてみじめな思いをすることも、メリールウにあんな哀しい笑顔をさせることもなかった。
そして、優桜の怒りは当たり前のように全て目の前の青年に――義賊に向けられていた。
「あんたみたいなのがいるからっ!」
優桜は剣を構えた。自然と、いつもの中段の構えになった。太陽の光に、細身の刀身が冴えた輝きを弾く。
「それはこっちのセリフだ」
騎士は口元に笑みを浮かべると、一歩間合いを詰めた。
「おまえみたいなのがいるから、おれ達は静かに暮らすことが出来ないんだ」
声は怒りでひび割れていた。
「おれ達が何をした? アイツが何をした? あんな目に遭わされるようなことはしていない」
「それはあたしたちだっておんなじよ!」
メリールウが何か悪いことをしたのか? リサだって同じだ。
誰も悪いことはしていない。なのにどうして、こんなにも苦しく悲しいのか?
「自分たちはいいことをしてるって思ってるのかもしれないけど、みんな迷惑してるのよ。傷ついてるのよ」
「……何も知らないくせに」
騎士の形の良い唇が歪んだ。
彼は無造作に、振りかぶっていた剣を優桜に向けて振り下ろした。ひゅっと、優桜の耳元で風が鳴る。遅れてやってきた冷気が優桜の肌を冷やす。
無性に怖かった。目の前で得体の知れない男が本物の刃物を振り回しているのだから、腰を抜かしてこの場に倒れてしまってもおかしくないのだ。
優桜は子供の頃からずっと剣道をやってきたのだから、頭の上に竹刀を振り下ろされることも、自分よりずっと背の高い相手と剣を交えるのも慣れているはずだった。それでも、怖い。ここは安全な道場ではなく、相手が使っているのも審査された規格の竹刀ではなく、優桜は面も防具もつけていない。怖くて当たり前だ。
けれど、逃げ出せないこともまた事実だった。
今逃げ出せば、二度と立ち向かえなくなる。辿り着いた結論が、優桜の背中を押した。
抜き身の刃は、手に馴染んだ竹刀と重さも大きさもほとんど変わらない。中段に構えて、相手に対峙するのであれば。
「ヤアーーーーーーーーーッ!」
大きく叫び、優桜は面を打つべく剣を振りかぶった。叫んだのは剣道をやってきた人間としてあまりに当然の行動だったが、騎士にとっては驚きだったらしい。彼は一瞬、踏み込むのを躊躇した。
そこに隙が生まれる。優桜は面打ちの要領で騎士に向けて剣を振り下ろした。
「……っ」
騎士は大きく左側に体を倒すことで逃げようとした。優桜の剣は、彼の歪な形の右耳を掠め、歩道にぶつかってがきんと鈍い音をさせた。騎士はそのまま左側に倒れたが、手を使ってすぐに上体を起こした。座っている相手に向けて技を打ったことがない優桜の剣は、そこで止まってしまった。
宝玉のような緑色の目が、油断なく優桜をうかがっている。
それがわかったのは、優桜の剣が騎士の顔を覆っていたミラーグラスを弾き飛ばしたからだった。
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