桜の雨が降る------4部3章6
優桜は翌日、いつもより早い時間に目を覚ました。メリールウはまだ眠っていたから、起こさないように気をつけて、手早く身支度を調えた。洗濯機を回し、朝ご飯も用意する。昨日買い物をしていないから、冷蔵庫の中はがらがらだったが、優桜はがんばってそれらしい朝食を作り上げた。作ったうちの半分を自分のぶんとしてたいらげ、半分には覆いをしておく。洗濯物を干してから、優桜はそっとドアを閉めて下の階の法律事務所へと降りていった。
開いているか、開いていてもウッドがいるかまではわからなかったのでドアをノックしたのだが、返事はなかった。ノブを捻ると開いていたので、おはようございますと声をかけながら入ってみる。
誰もいないかと思ったのだが、驚いたことにもうウッドがいて、彼は入り口から少し入ったところで誰かと話をしていた。ウッドと同じくらいの背丈だが、ひどくひょろひょろとした人物だった。
彼らは優桜に気づくと口をつぐんだ。ウッドが促すと、相手は会釈して優桜の横を通り過ぎていった。帽子を目深に被っているせいで顔はよく見えなかったが、線が細く神経質そうな印象があった。
「……お客さん?」
「そんなとこだ」
ウッドは自分の席に戻りながら言った。どこか疲れているような足取りだった。
「こんなに早いのに?」
「そりゃ予定が狂ったらな」
ウッドに横目で睨まれ、優桜は恥じ入って顔を伏せた。予定が狂っているのは当たり前で、しかも、それは優桜のせいだった。
「ごめんなさい」
優桜が謝ると、ウッドは口調をやわらげた。
「別にお前だけのせいじゃないし。パルポネラが失敗しない保証だってなかったわけで、そもそも何もしなくても法案が通らない可能性だってゼロじゃなかったし」
昨日とうって変わった甘い言葉だった。
「だから大丈夫だよ。お前はもう気にしなくていいから。今回のことは忘れて、また次から頑張ってくれ。今は休んで、さ」
その表面の甘さに騙されるほど、優桜は子供でもお嬢様でもなかった。自分が失敗したことと、そのことでウッドが自分を見限ろうとしているのが優桜にはわかった。
このまま外れてしまえば、確実に楽だ。
でも、それではいけない。今退いたら、優桜は全ての問題から逃げ出す人になってしまう。メリールウのことだって、守れなくなってしまう。
立て直すことができるかもしれない未来があるのに、たった少しの躓きで逃げるなんてしたくない。それが優桜が自分自身に決めたことだった。
「……それって、何もしないで諦める、ってこと?」
優桜の強い語調に、ウッドは驚いたような顔になった。優桜が黙って頷くとでも思っていたのだろうか。
「何もしないも何も、できないだろう」
「まだ終わってないのに? 決まってないのに? やる前から諦めたらダメ!
ウッド、前に『知ったからには全力で取り組まないとな』って言ったじゃない。いつも言ってることは口だけ? いい大人なのに?」
昨夜突きつけた言葉をほぼそのまま返されて、さすがにウッドも苛立った表情になった。
「だいたい全部――」
「お前のせい、っていうんでしょ?」
彼の続けたいであろう言葉を引き取って、優桜は続けた。
「そうだよ。あたしのせいだから、あたしがちゃんと決着つけたいんだよ。ここで逃げたら、あたし一生逃げ回るくせがついちゃう。そうしたら。お母さんみたいな大人になるよ。自分が非道いことしても知らん顔で法律を扱うような最低の人間になる。でも、逃げなければあたしはメリールウを守ってあげられるかもしれない」
思いの丈を精一杯まくしたる。気がついたら、優桜は肩で息をしていた。
「だから、あたし休まないよ。関わるの止めないよ」
「じゃあ、具体的にどう行動する」
ウッドはいつもの調子を崩していなかったが、それでも優桜の迫力に気圧されているようだった。琥珀色の瞳が、まるで靄でもかかったようにぼんやりと優桜を見返していた。
「書類に判を押させない必要があるんだぞ。壁の中の金庫に保管される物に、どうやって細工するんだ?」
「それは……」
優桜は押し黙った。自分に続けたい気持ちがあっても、何か出来ることがあるのかと聞かれたら難しいのだ。そもそも優桜で実行できるような件があれば、ウッドは外部の協力者に頼むなんてしなかったはずだ。パルポネラみたいな人間と関わらなかったはずだ。
優桜は必死に考えた。自分でも出来ること。壁の中に保管されている書類。どういうわけか壁の外にある議会。貴族は何を考えているのだろう?
金髪と蒼い目の、豪華なアパートに住めて車も持てるお金持ち。車を信号機がない場所で乗り回すなんて、迷惑にも程がある。突然車が来たら、人がどうなるかわかっているのだろうか? そもそも彼らは、突然人が現れたらどうするのだろう? 一人二人なら弾き飛ばしてしまうのか? 複数だとしたら――?
ちらりと、優桜の頭に考えが過ぎった。まだ形になってない、形になるかもわからないもの。だけど頑張れば何かになるかもしれないもの。
「ねえ、ウッド」
優桜はおそるおそる、自分の中に過ぎったものを彼に打ち明けた。
*****
「オレの目は間違ってたかね」
優桜が出て行ったドアを見つめて、ウッドは嘆息した。
ウッドが優桜を容赦なく言い負かしたのは、それで自信をなくした優桜が今まで以上に自分の言うとおりに動いてくれるようになれば話がぐっと楽になると考えたからだ。間違った方向に行こうとする彼女を正してやりたかった、なんていう正義感ではない。それが言いたいのなら、この前ニナに手を上げた時点で言っている。
(そういう整合性を考えない部分はまだまだ子供なんだよな)
大丈夫。付け入る隙は充分に残っている。
さっき思わず気圧されたのは、優桜の必死さがいつか見たものと重なったからだ。その時の相手は優桜と似ても似つかぬ大人であり、ウッドよりも年上だった。
『まだ決まってないのに? やる前から諦めたら駄目よ』
『関わったのはあたしよ。逃げるのはカンタンだけど、どうせ今関わらなくても、人間いつかは死んじゃうのよ。だったらどうして、今あなたから逃げだして、あなたなんか知らないって放っておくような卑怯なことができるの?』
『逃げなければ、あたしは貴方を守ってあげられるかもしれないのに』
話の内容はまるで一致しない。けれど、どちらもウッドに対して訴えた物であることが同じだ。声の必死さも、言葉に込められた思いが真実だと言うことも。
忘れられない記憶は、あまりにも鮮やかで、哀しくて――。
「何で同じ事を言うんだ……」
ウッドはそれだけ言うと、額を抑えて俯いた。
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