桜の雨が降る------4部2章9
メリールウとサリクスが袋の中身を並べている間に、優桜は棚から人数分の食器を出してきた。今日のご飯はハンバーガーと熱々のスープで、付け合わせは花雷のマリネと、もちもちした揚げ物の取り合わせだった。少し間違うと油っぽくなるメニューだが、マリネの酢の味が食べるたび口をさっぱりさせてくれる。ウッドがこの味は苦手だと言ったので、彼の分は三人で分けることにした。
「さっきの話だけど、『ウッド』ってやっぱり『木』って意味なの?」
優桜が聞くと、ウッドは頷いた。
「そうだけど? そっちの世界だとおかしいのか?」
優桜は考えてみた。日本語で木という名前ではおかしいが、ウッドというのは西欧の名前で、優桜には馴染みのないものだ。聞かないわけではないが、どういう意味合いになるのか、おかしいのかどうかまではわからない。
「あんまり聞かないからわからない」
「俺はユーサってほうが聞かないけどな」
ひとつめのハンバーガーを飲み込んで、口の周りを紙ナプキンで拭っていたサリクスが会話に入ってくる。
「ユーサだって、意味があるんだろう? 親御さんが考えてくれたもの」
問われて、優桜は押し黙った。
女の子が生まれたとわかった時、父親は真っ先に、早世した妹の名前である美桜と名付けようとしたのだ。しかし、叔母は事件絡みで若い命を落とした人であり、その名をつけることを周囲が総出で反対した。それでも父はしばらく譲ろうとしなかったのだと聞く。優桜の母が最後まで首を縦に振らなかったため、父が折れることになった。
折れた結果が『美しい桜で美桜なのだから、優しい桜で優桜』である。美桜からそんなに離れていない挙句に、読みづらい。画数も多い。
理由を聞かれると、正直、困ってしまう。
「ユウは優しいのユウ。サは桜。春に咲く花の名前」
優桜は最低限の言葉で逃げようとした。
「お花の名前なんだ?」
メリールウが嬉しそうに笑う。
「いい名前じゃないか」
「よくない」
優桜は首を振った。そう言われると、反発したくなる。
自分は決していい名前だと思っていないから。
「だって、亡くなった叔母さんからの名前なんだもの」
「人にあやかれるように名前をつけるのはおかしいことなのか?」
「あやかったら困る人だもん……」
自分の声は思ったより細く、掠れてしまった。
『優ちゃん、聞いて。それだけじゃないのよ』
小学校の頃だったか。はじめて自分の名前の意味を知って、泣いて嫌がった優桜を母が宥めようとしてくれたことがある。
優桜はその時はじめて、母の言葉を「聞きたくない」と遮った。母も、それきり何も言わなかった。優桜の反発をわかっていたのか、その場を繕おうとしただけで優桜に語れる意味を持たなかったのか。多分、後者だろう。本当に母が自分のことを思ってくれたなら、別の名前にしてくれたはずだから。
母の言葉を聞きたくないと思ったのはその時だけだった。今はそうではなくなった。自分の名前の言い訳なんかよりずっと聞きたくない事実が今はある。
だんまりした優桜に、三人が戸惑った顔を見合わせる。
「あの妹じゃ確かにあやかられたら困るだろうけどさ」
ウッドに言われ、優桜は瞬いた。
「……話したっけ? 美桜おばさんのこと」
「ん? ……ほら、あの時言ってただろ。覚えてない? お前あの時だいぶ混乱してたから無理もないだろうけど」
ウッドはそう言うと、困ったように笑った。
最初の頃だろうか? 確かに突然まったく知らない世界に放り出されて混乱していたから気づかずぶちまけたのかもしれない。
「それでも、大事な名前よ。あたしも花でもあるから、お揃いみたいでうれしいな」
メリールウがそう言った。
「メリールウ、って花があるの?」
「違うよー」
メリールウが笑顔で首を振るから、優桜は訳がわからなくなってしまった。
「じゃ、何で?」
「『陽気な花』なの。だから、ルー、は間違ってるのよ」
メリールウは頬を膨らませてサリクスに言う。サリクスは頭に手をやった。
「……ごめん。何で間違ってるのか、もーちょい詳しく」
「短く呼んでるだけであってるんじゃないの?」
細かいことに頓着しないメリールウは、なぜか呼ばれ方だけは異常と言えるほどこだわっている。正しい名前を呼ぶことに意義があるのかと思いきや、本人は優桜をユーサと呼んでいる。
優桜(ゆうさ)の正しい発音は三音だ。ユーサだと二音になるし、アクセントが微妙に違っている。メリールウの主張には一貫性がないのだ。
「うーん……あたし、あんまり上手く言えない」
メリールウは困ったように眉を下げた。
「とりあえず言いたいように言ってみ? ウッドもユーサもいるし何とかなるっしょ」
「アテにされても困るけど。でも話さなきゃ始まらないからな」
ウッドからも促されて、メリールウは深呼吸した。
「名前はその人だから。あたしが半分だけだったらあたしじゃないでしょ?」
「?」
優桜はサリクスと顔を見合わせた。覚悟はしていたがやはりわけがわからない。
上目遣いに顔を伏せたメリールウは親から叱られるのを知っている子供みたいに見えた。
「まあ、確かにお前の足がぶったぎられてなくなっちまったらお前じゃないだろうさ。半分……半分ねえ」
ウッドはじっとメリールウの赤毛の頭を見てから言った。
「名前を半分にしてる、って言いたいのか? メリーとルウが別れてるって」
メリールウは破顔すると何度も頷いた。
「うん、それがいいたいの。ちょっと違うけどそれなの。あたしの名前、音はおんなじなんだけど、書くのが違う。えっと」
メリールウはきょろきょろと辺りを探し、食べこぼしたスープを使って指先でテーブルに書き出したので、サリクスがとめて紙ナプキンで手をぬぐわせた。ウッドが胸ポケットに差していた件の万年筆を差し出す。
メリールウはハンバーガーを入れていた紙袋をぺしゃんこにつぶすと、そこに万年筆で二つの綴りを書いた。ひとつは優桜も知っている、食堂の社員証に書かれているのと同じ字だ。もう片方は初めて見る綴りだった。何やら長く、節が二つに分かれている。
「これがあたしの名前」
メリールウは優桜が初めて見た方の綴りを指した。
「放浪者は、その人の性質に合った名前を考える。メリールウは『花』と『お祭り気分』で、あたしの性質は『陽気な花』なの。だからルーは間違い。かたっぽだけは、あたしじゃないの。ユーサはちゃんとユーサでしょ?」
「ああ……そっか。そうなのか」
サリクスが合点が言ったように息を吐いた。
「ルーってだけだと、もう片方の意味が消えてしまうんだな?」
「そう!」
メリールウがすごい勢いで頷いたので、広がった彼女の髪が隣にいた優桜の頬や肩まで叩いた。
「ユーサはちゃんとユーサだけど」
はたと思いついて、優桜は言った。
「ルーって呼ぶのは、あたしの名前をサって呼ぶのと同じってこと?」
そうであるならメリールウの言っていることは意味が通っている。ユーサという呼び方は優桜の名前の意味を別のものにはしていない。
「そうそう! 嬉しいな、ユーサわかってくれたよ!」
メリールウはがばっと優桜に抱きついてきた。頬や額にキスの雨が降って、身動きできず目を白黒させている優桜を見かねたのかウッドが手を伸ばして二人を引き離してくれた。
「ルー、俺も俺もー」
メリールウは微笑むと、サリクスの手を取ってその甲に軽く口づけた。
サリクスは渋い顔で自分の手の甲を確かめていた。
「メリールウ、って呼んだら専属になってくれる?」
「サリクスはルーって呼ぶのが好きなんでしょ?」
メリールウは小首を傾げた。
「ん。可愛い女の子には可愛い愛称を」
「サリクスはサリクスだからあたしは好きだよ。それとおんなじ、あたしもあたし」
「今まで通りでいいってコトだな」
そう言って笑っている二人は、やっぱり優桜にはよくわからない部分があるのだった。
視線を感じて顔を上げると、ウッドが自分と同じような苦笑いを浮かべていた。
「放浪者は名前が難しいよな」
優桜は頷いた。
「ワンダラー・メリールウ・シウダーファレス……だっけ? あれ?」
思い出そうとしてみたが、出てこない。元々耳馴染みのない横文字の名前であり、加えておそろしく長い。
「オレもメリールウ・シウダーファレスとしか覚えてないな。書類はそれで作れるから。優桜が言ったのにもう何個か足すんじゃなかったっけ」
「全然違うよー」
メリールウが唇を尖らせる。
「ワンダラー・シウダーファレス・ボニトセレソ・ジョ・メリールウだよ」
「俺は覚えてたぜ!」
優桜とウッドは異口同音に「嘘だ」と言った。
サリクスは苦笑いしながら「ホントだって」と主張していたが、果たしてどうなのか。メリールウは何も言わず、ただころころと笑っていた。
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