桜の雨が降る------4部2章6
『……まだお召し物が決まらないのか?』
一度、姫君にそんなイヤミを言ったことがある。
『せっかく着られる季節になったんだもん。黄色もピンクも着たいよ。ね、どっちがいい?』
そう言って自分にワンピースを突き出すものだから呆れてしまった。約束の時刻を過ぎたから部屋に上がっているのだというのに。
『おれはどっちでもいいよ』
麗しの姫君は、この返答にたちまちご機嫌斜めになった。そのままじろりと騎士の全身を一瞥する。
『……なに』
『もう少しお洒落だったら合わせるのも簡単なのにって思ったんですー』
騎士は自分の服装を見下ろした。何のこだわりもないシャツとズボン姿だ。きっちり洗濯してアイロンもかけてある最上の部類の服。
『せっかく格好良くて背もあるんだしもっとお洒落しようよ? ね、今日の予定を変更して服を買いに行かない?』
そんなふうに言って姫君は笑っていた。他人の服に口を出すくらいにしゃれっ気のあった少女だったのだ。
だから、尚のこと今のこの境遇が不憫だ。
騎士は物思いから覚めて、目の前の少女に向き直った。
もうずっと寝間着姿で、着替えるものも同じだ。こんな悲惨な状態を目の当たりにしているから、騎士のエレフセリアへの憎しみは日ごとに大きくなっていく。あの日まで面識すらなかった黒髪の少女をますます憎悪していく。
ユーサと呼ばれていたが、実際には少し違った名前だった。魚崎優桜。姫君と同じく十六歳。外見から察するに中央人ではないかとフリュトの資料にあった。この人物には明確な戸籍が存在しないのだそうだ。
そんなことがあるのかと言いかけて、騎士は我が身を思った。自分も養父に貰われるまで戸籍は存在しなかった。そういう人間は表に出ないだけで確実に存在する。
彼女は中央首都の繁華街の近くにある食堂のアルバイターだ。ここのスタッフには、メリールウ・シウダーファレスという放浪者の女性がいる。ここまではフリュトがあっさりと調べてしまった。従業員名簿にサリクスという名前は見つかっていないが、これは時間の問題だろう。手がかりさえあればフリュトは辿り着ける。この世の中に何の痕跡もなく生きることは不可能に近く、フリュトはその痕を誰より確実に辿る。
問題なのは、どこまでがユーサに――エレフセリアに関与しているかということだった。義侠的で通っているオーナーが流れ者のユーサを拾っただけなのか、それとも、同じビルの法律事務所ごと一味なのか。法律事務所の動向もフリュトとラーリに監視してもらえるように手はずを整えてある。最近、彼らはとある行動に熱心になっている。どうやら法案をひとつ、通らないようにしようとしているらしい。ご苦労なことである。自分たちにとってはどうでもいいが。
騎士が気になるのは、ユーサが『偽りの平和姫』を探していると言ったことだけだった。
偽りの平和姫のことを、ガイアに圧政を呼ぶ発端であったと思い込んで一方的に恨んでいる人は少数ではない。彼女の行方が知れれば――騎士は複雑そうに姫君を見つめ、端麗な顔をまた険しくした。
どんなことがあっても守ると決めた人だったのに。
騎士は姫君に注ぐ愛情のぶんだけユーサを憎む。どちらも同じ、十六歳の黒髪の娘だというのに。
今日も姫君はぼんやりとしていた。ベッドに半身を起こし、顔は窓の方に向けている。でも景色を追っているわけではない。呼べば振り向き、笑ってさえくれるがそれだけであり、しばらくしてまた視線を窓の外に向けてしまう。同じ動作を繰り返す人形のようだ。
「カーディガン、もってこようか。二枚持ってたよな。何色がいい?」
姫君は無邪気に笑う。視線が外に向く。
「紺色がいい? でも今日は寝間着が黄色だから、これだとおかしいかもな。もう一つにしようか?」
姫君は無邪気に笑う。視線が外に向く。
騎士は息をつくと、灰青色のカーディガンを出してきて姫君の肩にかけた。
姫君は無邪気に笑う。視線が外に向く。
「……」
騎士がうなだれたところに、ドアが開いてコルノが入ってきた。
「おにいちゃん」
ここで呼ぶ時は名前や本来の関係の出る呼び方は避ける、という決め事があるのだが、コルノは騎士のことを、いつものように「おにいちゃん」と呼んでいた。
「コルノ。来てたのか」
平日でまだ日が高いから、彼女は自宅にいるものだと思っていた。ここから自宅までは結構な距離だ。そう思い口を開きかけて、コルノには距離なんて大した問題にならないと言うことに気づいた。自分もそうであればよかったのに。
「あんまり使うと疲れちまうぞ」
「へーき」
コルノは緩くかぶりを振った。騎士と同じ色の、きれいな金髪が揺れる。
「おにいちゃんが心配。ここのところずっとだよ。疲れてるんでしょ?」
「おれは大丈夫だよ」
「本当に?」
コルノが自分を見上げる。今、騎士は椅子に座っているけれど、それでもまだコルノの方が小さいのだ。
『この子の兄さんになってやってくれないか。守ってあげて欲しい』
そう言われた時、コルノはまだ首も据わっていない赤ん坊だった。年月が経つのは早いものだ。体こそ小さいが、彼女は自分を心配してくれるまでに大きくなっている。
「これ忘れちゃってるくらいなのに?」
コルノはいたずらっぽく笑うと、騎士の前に右手を差し出し、ぱっと勢いよく開いた。騎士と比べれば小さな掌の中に、平織りのミサンガがあった。
「ああ……」
騎士はそれをつまみあげて苦笑いする。
赤と黄の糸で織られたそれは、騎士の母が息子の無事を願うため作ったものだった。母の住んでいた地区に伝わるまじないの模様が織り込んである。手首につける男女共通のアクセサリーで、持ち主の生命の糸に危険が迫った時、身代わりとなって切れてくれるとか。
「つける気になれなくて置いてたんだ」
「そうなの?」
騎士は椅子から立つと、姫君の机の二番目の引き出しを開けた。迷いなくクッキー缶のふたを開け、中からミサンガを取り出す。女性用に幅が細く作られているが、騎士のものと対になっているのはすぐわかった。
騎士の母は息子の無事だけではなく、恋の成就も願ったというわけだ。
コルノがぷくんと頬を膨らませる。
「おにいちゃんってばホント、いつも姫君姫君だよね」
いつもの強気な声だったが、ライバルを見下ろす顔にその影は薄い。
「姫君なんて大嫌いよ。今のでますますキライになった。目を覚ましてくれなきゃ文句も言えないんだもん」
おにいちゃんを悲しませないでよ。そう呟いた声が細い。
いつもの姫君なら、コルノがこんな生意気なことを言えばたちまちくってかかったのだった。ツェルとファゴに「大人げないから止めなさい」と宥められても繰り返した。それだけ我儘なお姫様であり、同時に、それだけ騎士のことを好いていた。実情はどうあれコルノは騎士の妹で、年だって十歳近く離れているのだからライバルになるわけがない。くってかかる理由はないのである。
コルノはいつまでも、騎士にとって愛すべき守るべき小さな妹だ。姫君はそうではなかった。愛すべき守るべき小さな友人は、いつの間にか騎士の心のいちばん大切な位置を占める女性になった。何事も起こらなければ、騎士の自宅の居間には二人並んだ写真が飾られていただろう。
「そろそろ気合いを入れるか。情報も届いたことだし」
騎士は自分の手に、姫君の方のミサンガを巻き付ける。かなりきつくなってしまったが、つけられなくはなかった。
「おれが帰らない時は、母さんたちにオボアのところに泊まってるって言っておいてくれ」
コルノは切なげに兄を見上げ、頷いた。
「おにいちゃん、気をつけてね」
何をするのかは敢えて聞かない。わかっているから。
「ああ」
騎士は言うと、自分の方のミサンガを姫君のすっかり細くなった手首に巻き付ける。
姫君は無邪気に笑う。視線がちょっとだけミサンガに落ち、すぐ外を向いた。
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