桜の雨が降る------4部1章9
事務所のソファの、普段はメリールウが座る位置にパルポネラは席を取った。普段はその隣が優桜なのだが、今は優桜は彼女の斜め前、ウッドの隣に座っている。
パルポネラは優桜と同年代に見える可憐な少女だった。まるで人形のように小さな顔と、事務所の安物のライトの下でも輝く蜂蜜色の髪。ふんわりとカールした様子は毎日の手入れが欠かされていないことの表れだった。瞳も、宝石のサファイアを愛らしい形に切って嵌め込んでいるのかと思うくらいに綺麗な蒼。貴族の瞳の色は『蒼』と表現され、その美しさで扱いが変わると優桜は聞いたことがある。受け皿を持ち上げて紅茶を飲む様は典雅という言葉がぴったりだった。
パルポネラ嬢の衣装はといえば、控えめに言っても貧弱だった。隣にたたまれているコートは毛皮の上等品だが、今着ている臙脂色のワンピースは代用繊維製であることが優桜の目でもわかった。デザインも単調だ。片方のブーツのつま先に泥が跳ねたような跡がある。ここにくる途中でひっかけてしまったのか、上手く染み抜きができなかったのか。髪飾りは色とりどりのビーズがつづられていて、金髪はその紐で簡単なアップにまとめられていた。
優桜の視線に気づいたパルポネラが、小首を傾げて優桜を見る。愛らしいその仕草に優桜は驚いた。ウッドは金髪だが優桜は黒髪だ。粗雑な扱いを受けるかと思っていた。自分たちが歩いているところに突っ込んでくる車のように。
「ご足労頂きありがとうございます。オレがウッド・グリーンです。こちらは魚崎優桜」
「はじめまして」
紹介され、優桜は頭を下げた。
「私はパルポネラ・ノウブルマン=ピッツフィールドです」
鈴を振るかのような愛らしい声だったが、優桜は少し驚いて顔を上げた。ウッドから聞かされた名前と違っている。
本人も気づいたのだろう。あら、と小さく言って頬に手を当て、恥じらったように笑う。
「今はパルポネラ=イェーツですね。姓が変わったことにまだ慣れなくて。どうかパルとお呼びください。この名では姓になじみません」
貴族は姓が地位を現わすのだろうと、優桜は想像した。
「では、パル。オレたちは今審議されている法案が可決してしまうことを避けたいと思っています。どう考えても、その法案があることで国民が幸せになれるとは思わないから」
パルは慎ましやかに目を伏せている。優桜もそれに倣うように黙っていたが、内心では疑問に思っていた。
力のある貴族に協力を頼み、その人物から圧力をかけてもらうのなら話はわかる。けれど目の前のパルポネラは優桜と同じような年頃の、しかも没落した貴族の娘だ。この娘に何の力があるというのか。
「表立って出来るだけのことはしてきたつもりですが、多分、間に合わない。だから貴方に協力をお願いしたいと思い連絡しました」
ウッドはどこまでも丁寧に言った。
「あなたの現在の勤務先は、提出担当大臣フィラデルフォス・ノウブルマン=プルーストス氏の自宅――パル、あなたはプルーストス家の下女ですよね」
パルポネラはうつむき、膝の上で重ねた自分の手を見ていた。すんなりと細い指先は、優桜たちと同じく水仕事であれていた。
「プリムラ……いえ、プルーストス大臣のご令嬢であるプリムローズ様が、高等女子学館での友人でした。そのご縁で父が位を失った後、ご奉公させて頂けることになったのです」
パルポネラは友人に仕えることになったのだ。
「事前にお伝えしたとおりです。オレたちと協力してください。受付担当の押印がされなければ、法案を提出することは不可能なはずです」
書類を提出させない協力をして欲しいと、ウッドは短く言った。
「えっ」
優桜は息を飲んだ。
「何それ?! ウッド、それって!」
国家転覆罪どころじゃ済まない大罪行為だと思われるのだが。
優桜の声に、ウッドは少し声の調子を落とした。
「『法律事務所』としてできるだけのことはした。けれど、間に合わない。周知が行き届かなかった。もう普通の方法じゃ止められない。あんな報道さえなければ、もう少しは……」
義賊のことを言っているのだと優桜は察した。
みんなが、楽しい話題に飛びつく。明るい話題に飛びつく。その気持ちはよくわかる。暗いニュースばかりじゃ塞ぎきってしまうから。
だから、こんな大事な決定が進行していることに気づかなかったのだ。
「どんな事態になるか知ってるから、可能性があるうちは諦めたくない。ここからは『法律事務所』より『エレフセリア』のほうが動けるはずだ」
ウッドはもう一度、協力してくださいとパルポネラに言った。ウッドの考えはわかったから、優桜も深く頭を下げた――演技ではなく本心で。
パルポネラは少しためらったようで、室内に沈黙が下りた。
その沈黙は意外な方向から破られた。
「ウッド! ユーサ知らない?」
螺旋階段を駆け下りる派手な音がして、凄い勢いでドアが開き、続いてメリールウの顔がひょいっと衝立の影から覗いた。走ってきた時のいつもの彼女で、髪の毛がほうぼうにふき散らかされている。赤い台風のように。
パルポネラはいきなりの闖入者に、サファイアブルーの瞳をこぼれそうなほど丸くしていた。
「ユーサ! ここにいたのね。いなかったから探しちゃ」
「メリールウ」
ウッドの声は珍しく少し掠れた。メリールウはそこで初めて来客があることに気づき、その容貌に気づいて、自分が何をしでかしたかに思い当たったようだった。彼女はぱっと衝立の陰にひっこんだ。
「すみませんっ」
慌てて優桜は頭を下げる。こういう場合、どのようにすれば礼儀を取り繕えるのか。
「いえ。頭上げてください。あと、出てきてください……メリール、さん?」
パルポネラは穏やかに微笑むと、優桜の頭を上げさせ、メリールウに声をかけた。
メリールウが叱られて様子を伺う子供のように、衝立の影からひょこっと半分だけ顔を出した。
「失礼しました。私どもの信頼できる友人なのですが……メリールウ。ちゃんとご挨拶して。このままじゃ逆に失礼だ」
ウッドに言われて、メリールウは出てくるとたどたどしくその場に膝を折り、頭を下げた。
「ハジメマシテ。ご機嫌うろわ……じゃなくて、麗しく。ワンダ、ううん、メリールウ=シウダーファレスと申します」
いつも朗らかな彼女が珍しく緊張していた。
このくらいの礼を取るのが常識なのだろうか。ウッドは事前に話をしたことがあったようだから問題ないだろうが、優桜は無礼だったのかもしれない。
いや、この際優桜のことはどうでもいい。メリールウはどうなってしまうのだろう。貴族出身の娘に、放浪者はどう映っているのか。メリールウを傷つけるようなことになったら。協力してもらえないことになったら。
しかし、パルポネラは優桜が考えたようには激することはなかった。
「初めまして。私はパルポネラ・イェーツ。パルで結構です」
手を揃え、軽く頭を下げたパルポネラは優雅だった。優桜が頭に思い描くお姫様そのものだった。
「グリーンさん。私、引き受けさせて頂きます」
パルポネラはウッドに向き直ると、凛とした声で告げた。
「宜しいのですか」
「ええ。私自身、思うこともありますし。それに……」
「それに?」
パルポネラは膝をついているメリールウを見て、優桜に視線を移し、慈悲深く微笑んだ。
「このお嬢さんたちともっとお知り会いになりたいのです。身分を追われてから同じ年頃の友達とは離れてしまいましたので」
控えめに浮かべられた笑みは雅やかでありながら、どこか悲しげだった。
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