桜の雨が降る------4部1章6
優桜とメリールウが勤務する食堂の主な客層は、周囲にある会社の社員たちである。ここは街の中心ではなく、極めて繁華街に近い場所であり、周辺の会社の規模は小さく、自分の社内に食堂を持てるところはほとんどない。そして、ガイアは現代のように、通りごとにコンビニエンスストアがあるわけではない。パンなど簡単なものなら買えるかも知れないが、店が少ないから買い損なう可能性もあったし毎日では飽きてしまう。
ウッドはこういう現状に目をつけて、自分が父親から譲り受けた建物の一階を丸々食堂に改造してしまった。彼の本職は弁護士なので、分野が違いすぎるような気がするが、いろいろな人から相談を受けるうちに、ウッドは生活に困っている人たちが働き、日々の糧を得られる場所を確保する必要があると感じたようだった。そのふたつの需要を一致させる策として、彼は食堂の経営をはじめた。これが幸いなことに好評を博し、現在でも食堂は運営されている。
食堂は昼前から夜の九時くらいまでと、結構長い時間店を開けている。そのため、昼と夜で従業員が入れ替わる。優桜とメリールウは最も忙しい時間である昼間に店に出ているが、夜しか入らない人や昼夜連続で入る代わりに勤務日が少ない人などもいて、同じ場所で働く従業員でも働き方は異なる。いろいろな場所の仕事を覚えられるように定期的に担当場所を変わるのも、こういった働き方を許可しているがゆえのことらしい。
その日も優桜はホールに出ていた。お客さんに料理を運ぶのと、食事が終わったテーブルを片付けるのが主な仕事である。ただし、昼のいちばん人気のメニューはビュッフェ形式なので、料理はお客さん本人が取り、自分で自分の席まで運ぶことになる。そういう部分では夜や他の食堂より働きやすいのだと、優桜は教わった。
優桜が空いたテーブルを拭いていると、隣の席から「お姉さん」と声がかかった。
「はい?」
優桜は笑顔を作って振り向き、そして凍りついた。
そこは四人がけのテーブル席で、今はそのうち三つが埋まっていた。男性二人と、女性が一人。女性はきんきらの髪を頭の上で高く盛り上げ、メリールウと同じくらいに腕や脚が見える薄い服を着ていた。デザインはメリールウのものよりだいぶ挑発的だ。
男性の片方はよく日焼けした肌で、短い黒髪に色つきの眼鏡をつけていた。薄いベージュ色のスーツと、耳から頬にかけてざっくりとついた傷痕が怖い。
優桜に声をかけてきたのは金茶色の髪を跳ねさせ、薄いグレーのスーツを着た男性だった。シャツは思い切りくつろげられていて、いぶし銀のペンダントが見えている。
「コーヒー追加で。あ、三人分ヨロシク」
男性は笑いながら優桜に向けてカップを差し出した。思わずこちらがつり込まれそうなしたしみやすい笑顔だった。
「サリクス?!」
金髪の男性は優桜の知り合いであるサリクス・フォートだった。
彼は繁華街にある風俗店で仕事をしている。夜間の仕事だから、あまり昼間に会うことはない。食堂で目にしたのも初めてだ。
「ほら、ぼさっと立ってたら駄目だろ。ウェイトレスさん?」
サリクスに促されて、優桜は慌ててコーヒーを取りに行った。
「何で来たの?」
「何でって、メシ食いに来たらいかんの?」
優桜が注いだコーヒーを美味しそうに飲みながら、サリクスは言った。
「ダメなわけないけど」
「ダメって言われたらアタシ困っちゃうわあ。ここは居心地いいし、ご飯も美味しいから」
女性が手にした派手なハンカチで口を拭きながら笑う。彼女はそのハンカチで、カップについた真っ赤な口紅をキュッと拭った。
「そうそう。ここなんて言うか、あったかいよな」
いつもありがとうと、顔に似合わない礼儀正しさで傷の男性が頭を下げたので、優桜はびっくりしてしまった。こんな常連さんがいたとは知らなかった。
「俺は普段はこの時間寝てるからあんまこないんだけど、トミーとキャシーから食事行こうって誘われて、ルーからユーサがホールに出れるようになったんだよーとも聞いたから、冷やかしてやろうかと思ってさ」
わりとがんばってるじゃんと褒められて、優桜はちょっと笑った。
「サリクスはこれからお仕事?」
「何? デートのお誘いしてくれてるの?」
「サリクス!」
声を荒げたところで、優桜の後ろから穏やかな、けれど尖った声がした。
「優桜」
振り返ると、艶のない金髪を頭の後ろでまとめた女性が立っていた。優桜と同じく、この食堂のエプロンをしている。
「ごめんなさいっ」
ホールスタッフの主任格である女性の登場に、優桜は首をすくめた。
「まだまだ忙しい時間は終わってないのよ」
「リサ。硬いこと言わないでよ。せっかくカタブツのユーサがデートに誘ってくれたんだから」
「勤務時間中にうちの若いスタッフをくどかれたら困ります」
ようやく様になってきたんだからと、リサが苦笑いする。
「若いスタッフじゃなければいい? ならリサ、俺仕事が終わるまで待ってるからさ、お茶でもしない?」
「あら光栄だこと。おばさんの昔話でもいいのかしら?」
リサは話しながら、優桜に手でここから離れるようにと指示し、自分はもう一方の手で空いた皿をまとめはじめた。優桜はありがたく下がらせてもらい、すぐにリサも下がってきた。
「ごめんなさい」
優桜が謝ると、リサは「勤務中にあんなにしゃべっちゃダメじゃない」と言ったものの、すぐに表情を緩めた。
「まあ、あの子たちは悪い子じゃないからねえ。いつも気持ちよく食べてくれるし。若い子たちが集まってたくさんご飯を食べてるところを見ると、内戦が終わってよかったなって思うわ」
ほどほどにねと優桜の肩を叩くと、リサは自分の持ち場に戻っていった。
リサは食堂の中では年長に近い女性で、自分の担当持ち場の人員をまとめる位置のスタッフである。ガイアの女性は、結婚して子供が独り立ちするまでは家に入るのが常識のようで、優桜には随分と前時代的に思われるのだが、その関係で食堂のスタッフは優桜たちと同年代の未婚の女性か、逆にずっと年上の、もう子育てが終わった既婚の女性が多い。リサはその二者の中間の年齢で、まだ幼い子供を抱える母親なのだが、子供を夫の母に預けてここに働きに来ている。子供がいるせいか面倒見が良く、彼女はメリールウにも好意的だった。残念ながら夕方から夜の勤務時間で入ることが多く、あまり優桜たちとは一緒にならないのだが。
その日の仕事が終わって、メリールウと連れだって店を出ると、先に出たはずの同僚とサリクスが何やら楽しげに談笑していた。そのまま通り過ぎようかと思ったのだが、メリールウがサリクスを呼んで、それに気づいたサリクスは会話を打ち切るとふたりのところに歩いてきた。
「よっ。ルーは久しぶり」
「久しぶり! あれ、ユーサは久しぶりじゃないの?」
この前一緒に会ったのが最後だよね? とメリールウが首を傾げる。
「さっきデートに誘い誘われしてたんだけど断られちゃったんだよ」
そういうサリクスの横を、友達と連れだったリサが通って行った。サリクスが唇に手を当てておどけて見せると、リサも笑って手を振り返した。
「リサも誘ったんだけどなあ。これでルーにも断られたら本日三連敗だぜ」
「ん? だったらお仕事までうちでのんびりする?」
「魅惑のお誘いだけど、今はルーだけの家じゃないんだろ?」
そこで二人から視線を向けられたので、優桜はびっくりした。
「あ……そっか。あたしの家でもあるんだ」
言いつつ、優桜はちょっと複雑になった。自分の家は現代の、両親と暮らしている一戸建てのはずで、優桜の部屋といえば剣道道具が置いてあって、贅沢ではないけれど何もかもが自分のためだけに調えられた二階の部屋のはずで。
メリールウだけの家ではない。同時に、優桜だけの家でもないから、優桜の気分で何かを決めることはできない。
「うん。あたしは図書館に行くし、大丈夫」
「えー? ユーサも一緒にお茶しよ?」
メリールウが優桜の腕を引っ張る。
「邪魔したら悪いよ。勉強しなくちゃだし」
「だーめ。ユーサが疲れちゃう! ここのところずっとだし」
「詰め込みすぎるとしんどいぞ? それに俺は紳士だから、昼間からベッドにまであがりこむなんてしな――」
そう言って茶化したサリクスの靴の甲を、優桜は思いっきり踏みつけた。サリクスが悲鳴にならない悲鳴をあげる。
「サリクス、だいじょぶ?!」
「ってて……ユーサ、ここ急所だぞ」
「そうなの? 狙いやすいって聞いて」
メリールウがサリクスに肩を貸して、四階の自分たちのアパートまで行き、優桜が部屋の鍵を開けた。メリールウはサリクスをダイニングの椅子に座らせると救急箱を取りに行き、すぐ戻ってきた。
「うん。赤くなってるけど傷にはなってない。まだ痛い?」
「大丈夫そうだな。すぐ動けって言われたらマズかったけど」
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