桜の雨が降る------4部1章5

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 翌日、優桜の食堂の仕事は休みだったのだが、ウッドから頼まれて法律事務所の仕事を手伝っていた。仕事といっても郵便物の仕分けや書類の整理などの、方法さえ教えてもらえれば誰でもできるもので、ウッドはそういう類の雑用が出ると、食堂が休みの従業員に声をかけ、日給を渡し手伝ってもらっていた。この方法は人手が必要な時に時間のある人に来てもらえるという点では有益なのだが、常にお互いの需要と供給が一致するわけではない。
 では人手が必要でも予定が空いている人がいない場合、ウッドはどうしているのか。そういう場合のために、彼は優桜やメリールウとご飯を食べて結びつきを強くしているのかもしれないと優桜は思い始めている。
 今日は優桜の食堂の仕事は丸々休日だったため、朝から図書館に行こうと階段を降りた。二階の法律事務所まで来たところで、ドアが開いてウッドに呼ばれた。
「今日仕事ないだろう? 手伝ってくれないか?」と。
 何で自分の仕事がないとわかったのかと訝しがったが、食堂の経営もウッドがやっているので、優桜のシフトは必ず彼が目にするのである。一度聞いたことがあるが、内部の情報は忙しくても常に耳に入るようにしているそうだ。こういう筒抜けの状況をサリクスは『悪徳経営』と評している。言われた当人はどこ吹く風で笑っていたが。
 現場の状況を上の人が把握してくれているというのは、働くものにとってはありがたいことである。優桜が知る限り、ウッドは悪人ではない。だから優桜は図書館篭りの予定を変更して法律事務所の手伝いをしていた。
 法律事務所は食堂の半分程度の広さの部屋を、本棚を壁の代わりにして区切ってある。仕事をする事務机がまとまって置かれた場所がいちばん広く、他に来客用のソファがある場所と従業員が荷物を置いたり簡単な着替えをすることができるロッカースペースがある。当たり前だが優桜の机はないので、今日は外回りで不在の人のものを借りていた。
「これもヨロシク」
 ウッドは窓際にある自分の机から書類をひと抱え運んでくると、優桜の机に既に築かれていた書類の山に加えた。かなりの高さだ。分厚い辞書二冊分くらいだろうか。
 今日の優桜の手伝いは、この書類の一枚一枚に判を押すことだった。
「社章なんだ。普段はオレが見た後に自分で押してるんだけど、今は他の仕事が多すぎていつものペースだと間に合わないから」
 その言葉通り、ウッドの机にも優桜と同じくらいの書類の山がふたつそびえており、隣に置かれた小机にもファイルが数冊積んであった。
 一体この人はどれだけ仕事をする気なのだろうか。
 ウッド・グリーンはこの法律事務所と食堂の経営者で、自身も弁護士の資格を有する三十歳前の男性だ。色素が薄く、金色に光る髪は長めなのだが後ろできちんと一束ねにされているので、正面から見ると長髪には見えないのだった。会社勤めでこんな髪をした男性というと優桜の世界では非常識な印象があるが、ウッドは不思議なくらい普通に見えた。この件に関してどこからも悪い評判を聞かないから、ガイアでは非常識ではないのかもしれない。
 優桜がそんなことを考えているのも知らず、ウッドは自分の席で何かの通信に応対していた。こちらでは電話ではなく有線通信と呼ぶ。技術が進んで、この十年前後で小型になったそうだ。その経歴は優桜にはわからないが、操作を覚えて使えるようになったのでそれだけでいいかなと思っている。詳しい内部の仕組みや部品の正確な呼び名は知らなくても使えるのはガイアも現代も同じだった。
 事務所には低い音でラジオが流れていた。
『法案第三十四条変改、通貨使用に関する改善及び改造案については本日正午、上院にて可決される見込みが強まりました』
 ガイアではテレビが一般化していない。これも、優桜が違和感を覚えることのひとつで、優桜からはパソコンにしか見えない端末を作成する技術があるのに、どういうわけか、人々の情報を得るいちばんの手段としてラジオが現役なのだった。優桜が同居させてもらっているメリールウの家にはラジオしかないくらいだ。
 放送局は数局あるらしいが、法律事務所で流される局は定期的にニュースを流す。この時間は報道番組というより、いわゆるニュースショーやワイドショーのようなスタイルで放送をしているようだった。キャスターの声は若々しい女性の物だ。
 覚えのある法律の名前に、優桜は社章を押す手を止めてラジオに視線を巡らせた。ウッドを含め、事務所にいた全ての人がそうしていた。
『この変改案が採決されると、現在の通貨使用に関する法律が変更され、使用される通貨によって設定された利用金が課税されることになります』
 優桜は暗い気分で手元の、さっき押した朱も鮮やかな書類を見下ろした。
 まだ読み慣れない、英語めいた、でも英語とは全く違う綴りにはこう書かれていると聞かされていた――法案第三十四条変改、通貨使用に関する改善及び改造案への反対運動、と。
 この法律が施行されると、お金を使用するたびに税金が発生することになる。優桜の知る概念だと、いちばん近いのは消費税なのだが、ガイアには既に「消費税」にあたる、消耗品を購入した際の税金は存在する。この税金は金銭の使用に対してかけられるため、買った物が今日の食卓に並ぶパンでも、住むために購入した新居でも区別なく発生する。そのため、改善及び改造案と報道されているのに対して、実際には大規模な増税案となる。改善なんて建前で、むしろ改悪だとウッドは言った。
『それでは次のニュースです。善意の義賊がまたもやリーガルシティに登場です』
 女性キャスターは、先ほどとうって変わった華やいだ声で続けた。
『本日午前七時頃、リーガルシティ南部の養護施設シェラザードの職員が開門のため外に出たところ、門の脇に五百エオローほどの現金の包みが置かれているのを発見しました。包みには「施設の利用者さんのために使ってください」と書かれていたということです』
 そのニュースに、なぜか事務所の空気は重く沈んだ。女性の事務員など、明らかに溜息をついている。その暗い空気を意にも介さず、キャスターはぺちゃくちゃとさえずり続ける。
『リーガルシティでは同様の無名の募金が連日続いており、その前後に大規模な窃盗事件が発生するのは皆様ご存知のことと思われます。窃盗犯と募金の主との関係性は現在判明しておりませんが、街の人々はこの事件を結びつけ『善意の義賊』と賞賛しているということです』
 ここでひとつ、ファンファーレのような効果音が鳴らされた。
『この善意の義賊ですが、現金または品物の包みに残されるサイン以外は一切の素性がわかっておりません。窃盗の現場で目撃された人物は身長百七十センチから百八十センチ、黒いコートと黒いサングラスで顔を隠した二十代〜三十代の男性との情報が国家警察より発表されておりますが、この人物が善意の義賊であるかは不明となっており、寄付を受けた施設からは「ぜひ名乗りをあげて欲しい」との声が寄せられております。一方国家警察は「他人から盗んだ物で寄付など言語道断である。寄付された品物が有効に使われるためにも、犯人には一刻も早い自首を勧める」との声明を発表しております』
「……もう五分はくっちゃべってるな」
 時計を見上げていたウッドが呟いた。苛立っているような声音だった。
「報道、されませんね」
 女性の事務員の声も沈む。
 今、法律事務所がこのように書類を積み上げ、まさに昼夜の別なく取り組んでいるのは、改造法案への反対運動なのだった。
 優桜が教えられたとおり、この法案が通ると通貨の使用自体に税金がかかり、増税となる。ところが、この増税の仕組みがきちんと報道されていないのだ。
 まず、法案の名前が『通貨使用に関する改善及び改造案』で、今までのものを良い方向にするような名前なのだが、蓋を開けてみれば『今まで通貨の使用に税金はかかっていなかったけど、改善及び改造で税金をかけることになった』という内容だ。ここまでは一応、ラジオで報道されている。さっきのように少ない時間で、かつ、わかりにくい言葉だったけれど。
 酷いのは、そのあとだ。
 優桜は自分の手元の書類にもう一度視線を落とした。
 資料には、こう書かれている。「この法案で対象と成るのは一定の所得以下の市民である」と。
 使用税は誰にでも等しくかかる。ところが、年度末の調整のために提出する書類で、一定の所得がある層には「還元」と称して使った税金が返されると制度に明記されているのだ。
「何で?! 何それっ!」
「高所得者はそれだけ他のところで社会に貢献してるから、だとさ」
 書類の内容を優桜に教えてくれた時、ウッドは呆れかえったような声でそう言った。
「ホントよく作ってあるよ。つくづく搾取が好きとみえる」
「どうして? 何でみんな怒らないの?!」
 現代でこんなことをやったら絶対にみんな許さない。そう憤った優桜に、ウッドは今度は憐れむような視線を向けた。
「知らないものにどうやって怒るんだ?」
 それは正論だったから、優桜は何も言えなくなってしまった。
 どんなに重大なことだって、知らなければ意味がない。だから優桜だって、母が犯罪者だと知らなかった頃は何の疑いも持たず、彼女の事を慕っていたではないか。
「知らないってのは便利で楽だよな。そんなことになっていたなんて知らなかったんです、って言えば収まるところに収まるし。けど、それは言い訳にはならんのさ」
 うつむいた優桜の頭を、ウッドの手が撫でた。視線を上げた先で、琥珀色の瞳が優桜を見ていた。光の加減なのかひどく薄い色で、値踏みするかのように見えた。
「知ったからには全力で取り組まないとな」
 優桜はこくんと頷いた。逃げる気なんてない。母を罪から逃がしてなんてあげない。
「わかった。全力」
 ウッドはにんまりと笑った。
「頼りにしてるぜ。『真なる平和姫』」
 そう言って彼はこの書類の山を優桜に押しつけたのだった。
「えっ、ちょっと!」
「知ったからには全力で協力してくれるんだろ?」
 全くたいした策士だと優桜は思った。
 しかし、さすがの策士も思うようにいかない現状には業を煮やしているようだった。ウッドは人に対して苛立った声を出すことはあまりなく、余裕があるような態度で振る舞っている。先日、自分の敵になる相手と対峙したとき、追い詰められたように見えた場面でもどこかユーモラスだった。
 理由は法案の内容が一般の人にほとんど知れ渡っていないことであり、本人が言ったとおり知らない人は無関心なのだから、こちらがいくら反対運動をしたところでどうすることもできないのである。知られない理由は様々だが、ラジオが流してくれないというのが大きいところのようだ。先ほどの『善意の義賊』のせいで。
 法案が下院に提出されるのと平行するようにして現れ、一躍話題をさらった人物で、先ほどキャスターがしゃべっていたとおりなら『ガイア版鼠小僧』といったところか。普段の優桜ならそのニュースをひどく微笑ましく受け取っただろう。
 そう。何も知らなければ。
 今の優桜は知ってしまっている。面白可笑しい出来事の裏で、自分たちの生活を足下からひっくり返すような法律が施行されようとしていることを。
 ウッドも同じだ。法律事務所の他の人たちも。だから、彼らはこのニュースで笑わない。苦い顔をして焦らされる。
 だから優桜は、この『善意の義賊』が好きではない。普段の職場である食堂の人たちが笑いながら話すことに、罪はないと知りつつ少し苛々してしまう。
 今までより必死に元の世界に戻る方法を探すのも、もしかしたらこういう生々しさから逃れたいからなのかもしれない。明水に会いたい気持ちのほうが強いけれど。
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