桜の雨が降る------4部1章2
優桜はガイアでは、表向きは「食堂のアルバイトスタッフ」となっている。文字を上手く読めなかった最初の頃は洗い場の配置で、ひたすら食器を洗っていたのだが、最近はシフトの半々くらいの割合でホールに出るようになった。食堂の経営方針で、スタッフはひとつの仕事の専任になるのではなく、ホールの運び係やレジなど、順番に食堂の各仕事を回って急な欠勤や欠員に耐えられるようにしているとのことだった。ただし、外見で異常に目立ってしまうメリールウは例外的に、洗い場と盛りつけの手伝いというふたつの裏方仕事の行き来のみになっている。
優桜は最初は洗い場からはじめ、盛りつけを経てホールに出るようになった。優桜の日々の真面目な態度が幸いしたのか「難しいことはないからね」と同僚から親切に、かつ適切に仕事を教えて貰えて、無事に勤まっていた。それでもはじめての仕事、かつ慣れない接客は気疲れする。
今日も仕事が終わり、優桜は疲労でぐったりしていたのだが、それでもお疲れ様でしたと挨拶して食堂を出た。すぐには帰宅せず、少し離れた場所にある図書館に向かった。
ここ「ガイア」は、優桜が育った場所とは別の「異世界」だ。
文化水準、というのだろうか。技術や、法律の整備具合は現代と非常に似ている。ところが、似ているようで全く違う部分も多々ある。例えば、ガイアは武器を携帯することが合法化されていて、優桜は普段、護身用の細身の剣を持ち歩いている。まるで部活に行く学生が、電車の中でテニスのラケットを下げるみたいに。刃が潰された試合用の模造品ではなく、振りかぶれば本当に斬れてしまう。現代であるなら、間違いなく銃刀法に違反して手が後ろに回る。
武器の携帯が許可されているのは、ガイアが辿ってきた歴史による。
ガイアは約二十年前まで、内戦の渦中にあった。
何がきっかけだったのか、どうしてずっと沈静化できなかったのかは、いろいろな説が流れていて、優桜にはまだわからない。中央首都と呼ばれるこの街からはるか北にある荒れた大地に、武装集団と呼ばれた組織が無法地帯を敷き、そこを拠点にして各地を襲っていたのだそうだ。異能力を使い、各地に争いを撒くことができた彼らは、ガイアをいつ何時襲われるかわからないという不安と恐怖に陥れた。国府すら国民を見捨てた。無力な民衆が唯一すがることができたのは、PCという組織だけだった。言葉の意味は『平和部隊』。この組織は国からいくつかの事業を委託されており、その中に軍備を有していた、とのことだ。
優桜にとって、それは奇妙に生々しいと同時に、遠い絵空事にも聞こえた。この感覚が優桜の知っている中でいちばん似ていたのは、テレビの報道で遠い国の戦火を聞くことだったように思う。液晶が映す炎は紛れもない現実。しかし、それはテレビのスイッチを切れば目の前から消えてしまう。いや、自分から動く必要なんてなくて、テレビは勝手に話題を切り替えてくれた。東京都内の美味しいスイーツショップや、動物園で生まれた愛らしい二世の話なんかに。
テレビのせいにするつもりはない。人なんて騙されやすいのだから。実の母すら優桜をずっと欺いていたのだから。もう騙されないぞと憤っている優桜は、自分の知りたいことはこうして自分で調べることにした。
優桜の気持ちは逸っている。一刻も早く元の世界に戻りたいから。友人に、そして何より従兄の明水に会いたくて仕方がないから。声を聞いて思わず泣いてしまうくらいに、――付け足せば夢で見るくらいに――優桜は明水のことが好きなのだ。
つい先日、突然騒ぎ出したかと思うと、床に座りこんで静かに泣き出した優桜のことを、メリールウはしばらく気のすむままにさせてくれた。優桜の涙が少し乾いた頃に、メリールウは回していた腕をほどき、優桜に「いまの人はおうちの人?」と尋ねた。
優桜は口元を押さえてしゃくりあげた。メリールウがテーブルの上にあったタオルを取ってくれた。
「心配してるんだね。でもなんで声が聞こえたのかな?」
「わからない」
優桜はペンダントを見つめた。もう光っていない。いつもの青い不透明な石がそこにある。
「さっき、光ってたみたい。パワーストーンって電話もできるの?」
「んー? そういうのもあるのかもだけど、あたし知らない」
メリールウが首を振ると、豊かな赤い髪が一緒になってゆらゆら揺れた。
「よくわかんないよ。パワーストーンはふしぎ、ふしぎ」
力包石(パワーストーン)というのも、現代とガイアの違いのひとつだ。おまじないの石なら現代にもあるが、ガイアにおけるパワーストーンとは、特殊な回路に接続することで電気エネルギーを発する鉱物資源である。優桜にはただの石ころにしか見えないものが家庭一年分の電気代を賄ってしまう場合もある。
パワーストーンは、特殊な回路に接続しない限り力を発揮しないと言われているものの、例外がひとつ存在し『生身でエネルギーを引き出してしまう人間』というものがごくごく稀に存在する。この場合は電気エネルギーに限らず、主に火や風など自然現象を操る能力者として覚醒することになる。その才を持ち、特に力の強い者を『力包石の主(パワーストーンマスター)』と呼ぶ。
そして、優桜自身もどうやらパワーストーンマスターらしいということだった。
母が大切に持っていたお守り袋に収められていたペンダント。
ガイアにまで持ってきてしまったそれは、不透明な青い石がついたものだった。この石は時折、光を発する。その時は決まって不思議な現象が優桜の身の回りで起きる。従兄の声を聞いた時。そして、自分に襲いかかってきた黒衣の男性の能力を跳ね返した時。
『平和姫は青い石を持つ黒髪の娘』
はじめて会った時、ウッド・グリーンは優桜にそう言った。
実際のところ、優桜は平和姫という存在に興味はない。突然飛ばされた異世界で救世主役を嬉々として引き受け旅立つ勇者なんて、そんなのは物語の中にしか存在しないのだ。なぜ、知らない世界のために自らを危険に晒さなければならないのか。そもそも、ぽっと出の人間に異世界でそんな好機なんて訪れない。普通は、お金もなく言葉も通じず、道端で途方に暮れ、心が弱っているうちに売り飛ばされそうになってしまうのだ――自分のように。
平和姫になりたいわけじゃないけれど、明水の声が聞こえたのなら、元の世界に戻るきっかけにはなり得るのかもしれない。だから、石のことも調べはじめた。
しかし、パワーストーンというものは優桜には親しみがなく、同時にこの世界に生きる人なら、みんな当然のものとして知っている知識だった。そのため、初心者にわかりやすく記載した本というものがほとんど存在しない。電気や水道の仕組み、電話のかけ方や買い物の仕方を書いた本が優桜の身近に少なかったのとおんなじに。
調べようとすれば多くは専門的なものになる。そして、優桜は今のところ、専門書を読み解けるほどガイアの文字に精通していない。
なので、優桜の調べ物はどうしても時間がかかってしまう。読む時間と考える時間に加え、文字を判読する時間まで必要になるのだから。ウッドやメリールウ、サリクスに読んでもらうわけにもいかない。彼らはそれぞれに多忙だし、いちばん頼りになりそうなウッドは帰宅せず事務所のデスクで寝てしまうほどの仕事量を抱えている。
優桜は傍らに児童用の棚から借りだしてきた辞書を置き、専門書を一ページ繰っては辞書を繰る、という作業を繰り返していた。
図書館は現代と同じで静かで、同じように閉館前になるとそれを知らせる放送が入る。流れた音楽にはっとして顔を上げると、図書館の窓が朱く染まっていた。帰らなくては。
優桜はどこまで読んでいたかを法律事務所からもらってきた、失敗したコピー用紙の裏面で作ったメモ帳に書き付けて、本を棚に戻そうと立ち上がった。
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