桜の雨が降る 3部4章5

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 優桜は翌日、作業を頼まれて法律事務所に来ていた。メリールウも一緒である。仕事の内容は書類を五枚揃えて折り、既に宛先が印刷された封筒に入れるだけだった。封筒もシールをはがせば簡単にのり付けできる。単純作業だが、ある程度量があるため簡単には終わらない。
「バイトの子にもうちょっといてもらうんだったよな」
 彼のアルバイトの期間は終わったのだという。依頼料のぶん無事に働けたのだと優桜は思った。
「あの子はどうしたの?」
「バイトだけど、心当たりに口利きして面接してもらってる。あとは本人のがんばり次第」
 上手く決まるといいと優桜は願った。
 作業は単調作ったが、最初はメリールウより角をかっちり合わせて折っていた優桜のほうが時間がかかっていた。
「ユーサ、そんなにびしーってしなくてもだいじょぶよ?」
「確かに。そりゃめちゃくちゃに折られたら困るけど、多少ずれるのは構わないよ」
 事務所は無音ではなく、ラジオがかかっていた。優桜の知らない音楽番組が流れている。仕事は沈黙の中でするものだと思っていた優桜には少し意外だった。
「次のニュースです。中央首都の商店ルナ・ハウスが労働者第一法、従業員の勤務時間に違反した疑いで、国家警察の調査が行われました」
 番組はやがてニュースになった。聞き覚えがある名前に、優桜は弾かれたように顔を上げた。
「加えて、同店には違法な物品を売買していた形跡があるとのことで、国家警察は店長のレムス・ボイド氏ほか従業員三名を任意同行のうえ事情を聞いています。続きまして――」
「ウッド!」
 優桜とメリールウが声を張り上げたのだが、ウッドは目顔で「黙れ」と制した。優桜は口をつぐむと、書類を折る作業に戻った。メリールウも何か言いたそうだったが、彼女もやがて封筒のシールをはがしはじめた。
「優桜。メリールウ。今日はここまででいいよ」
 少ししてから、ウッドがそう言った。
「お疲れさん。助かったよ。あとはオレがやっとくから」
 言うと、ウッドは机の横に置いていた紙袋をメリールウに手渡した。
「これ何?」
「バイト代。帰ってからあけてくれ」
「ウッド……」
 優桜は続けようとしたのだが、通信の当番をしている女性がウッドを呼んだ。配送業者からとのことだった。
「じゃあな」
 それだけ言うと、ウッドは通信に出てしまった。仕方なく優桜はメリールウと一緒に事務所を出て、アパートに戻った。
「ねえ、さっきのって!」
 ドアが閉まるのももどかしく、優桜はメリールウに聞いた。しかし、メリールウは呑気に紙袋の中身を確かめていた。
「わあ、ロールケーキだよ!」
「ケーキ?」
「お手紙入ってる。えっと『あっちの取引には手を出してない。単に法律に違反した店を匿名で通報しただけだから心配するな』だって」
「……!」
 相手の武器の横流しを摘発したわけではない。オークションハウスの労働時間を通報しただけ。オークションハウスが調査されれば、違法な武器の売買はきっとその捜査線上で明るみに出る。そうすれば、アッシュ商会はどう考えても破滅する。
 そんな方法があったのか。
 優桜はほっとした。正義は実行されたと、そう思った。直後に――自分と関わりがあった人の破滅を喜んだ自分に腹を立てた。
 貧しい人のための商売も行う人であることは間違いなかったのだ。商会が潰れてしまったら、食事に困る人が出るのかもしれない。いや、必ず出る。例えば末端の、会長の企みを知らずに店舗でレジを打つ従業員は、彼の共犯なのか?
 現代なら、こんなことはなかったのに。白は白、黒は黒ですっぱり割り切れた。自分の本来の居場所はそこだったはずなのに。
 ああ、でも――そう思っていたのは優桜が何も知らなかったからなのか。
 明水に会いたいと無性に思った。彼の目には、どう映っていたのだろう。
「ユーサ? 今、何か言わなかった?」
 メリールウが不思議そうに優桜に声をかけた。
「言ってないよ?」
 優桜は首を振った。
「でも、何か聞こえるよ?」
 メリールウが耳をすませる。
「男の人が何か言ってる。優桜のほうから聞こえるけど」
 メリールウは優桜の太腿のあたりを指した。
 優桜は、とっさにスカートのポケットを押えた。何となく熱を持っているような気がする。熱を持つようなものを入れていたっけ?
 ここにいれているのは、母のお守り袋から出てきたペンダントではなかったか?
 優桜は鎖を引っかけて、ペンダントを取り出した。石がうっすらと輝いている。
『何なんですか、一体』
 そこから、声がした。
 メリールウのいうとおり、それは男の人の声だった。優桜がいちばん好きな人の声だった。
「明水兄ちゃん?」
『え……今の』
 優桜の声は相手にも届いているようだった。
「兄ちゃん、聞こえてるの?! 明水兄ちゃん!!」
「ユーサ、どうしたの?」
 メリールウが面食らったような顔をしている。後から考えたら当然だと思った。友人がいきなりペンダントに話しかけはじめたのだ。気が狂ったと思われてもおかしくなかったはず。
 でも、優桜はそんなことは気にしていなかった。ただ声を張り上げる。
「お願い、聞こえてるんなら返事して! 明水兄ちゃん!」
『ユウ! ユウなんですね?!』
 懐かしい呼び方だった。優桜を「ユウ」と呼ぶのは明水だけなのだから。
「明水兄ちゃん……」
 優桜はその場に崩れ落ちた。けれど、ペンダントは離さなかった。耳に押し当てるようにして目を閉じる。
『ユウ、どこにいるんですか? 元気なんですか? 怪我は?』
「元気……怪我もしてない」
『今から迎えに行きますから。場所教えてください。どこにいるんですか?』
 明水は、優桜がちょっと出かけただけだと思っているのだろうか。今の優桜は、とても遠く遠くにいるのに。
「今、ガイア……別の世界。家に帰りたいよ」
『がいあ?』
 明水が訝しげな声を出した。それはそうだろう。
『とにかく、迎えに行きますから! 地名がわからなかったら、看板とかそこに連れて行かれる途中で見えたものとかでも教えてください』
 明水の声は、優桜が聞いたこともないほど慌てていた。向こうでどれだけ時間が経ったかわからない。優桜の時間と同じだけなのか、もっと早いのかそれとももっと遅いのか。明水がその間ずっと、自分を探してくれていたことは察せられた。だから無性に泣きたくなった。
「明水兄ちゃん。あたし、きっとすぐには帰れないよ」
 安心させようと思った。ここで自分が泣いたら、明水は今以上に心配する。だから、今だけは泣かないでいよう。
「でもね、元気だから。怪我してないし、ご飯だって一応食べられてるし、一緒にいてくれる人も、ちゃんといるから」
『ユウ、僕もおじさんも、うちの父さんと母さんも心配してるんですよ。優桜の学校の友達も。なんで――』
「お母さんは? 明水兄ちゃん、お母さんはどうしてる?」
 明水は答えなかった。
「明水兄ちゃん? 兄ちゃん!」
 呼びかけたが、反応はなかった。改めて見てみると、もうペンダントは光っていなかった。
「明水兄ちゃん……」
 優桜は両手に顔を埋めた。
 心配してくれていたのだ。探してくれていたのだ。
 メリールウが言ったとおり、待っていてくれたのだ。
 そのまま静かに泣き出した優桜のことを、いつの間にか同じように床に膝をついてくれていたメリールウが抱きしめた。彼女のぬくもりはシャンプーの苺の匂いと、使っている香水の柑橘類の香りとが混ざっていた。
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