桜の雨が降る 3部4章2
騎士は憤っていた。
こんなに怒ったことは、成人してからはなかったことだ。前はよく怒っていた。怒りをエネルギーに変えて敵を殲滅していた。保護され、引き取られてからは戦う理由がなくなったため、怒る必要がなくなった。そして、戦いのない、普通の人なら当たり前の心安らぐ日々を知り――同時に、自分が置かれていたあの状況が地獄だったことを知った。
目の前の敵を殺す方法だけを教えられて育てられた。その年の子供が与えられるおもちゃの代わりに銃を与えられ、友情ではなく周囲を利用して敵を倒すことを教えられ、自分の命より上官の命令が大事だと刷り込まれた。命令があれば、仲間を見殺しにすることも、自分の命を捨て特攻することもあの頃の騎士はいとわなかったのだ。
周囲にいた子供たちも同じだった。騎士のように、武装集団という特殊な場所に閉じ込められた子供たちだった。大半の子供が家族から引き離され、強制的に連れてこられていたことを知ったのは騎士が保護されたあとで、その時既に、子供たちは騎士を残してみんな死んでしまっていた。あんな馬鹿みたいな命令のために。
従わなければ容赦のない制裁を加えられた。はじめて見た血は、敵兵の物ではなく味方のものだった。騎士より年上の、面倒見のいい少年だった。彼は騎士たち小さな子供が武器を取ることに怯えているのを見かねて上官に意見したのだ。その彼に、容赦なく上官は発砲し――少年は倒れ、騎士たち子供はそうならないために武器を取り突撃した。
暴力による支配と貧困。それに伴う略奪と破壊。『耳なし(イアレス)』と呼ばれていた騎士にとって、それが当たり前のことだったのだ。でも、違っていた。あの環境は、終戦を良しとしなかった馬鹿な指揮官たちが、自分たちで作り出した地獄だった。不和姫が倒れた時点で終戦にしていればよかったのだ。でも、彼らはそれをしなかった。理由は簡単だ。終戦にすれば自分たちが戦犯として裁かれる。しかし、それをしなければ、特権階級としてしがみつくことができる。そう考えたうちのひとりが『忠誠の杯』隊の隊長だった。
なんでそんなことが可能だったのか、騎士は不思議に思っていた。主格を失い弱体化するしか道はなかったはずの武装集団が、どうやって武器を調達し戦っていたのか。
――まさかこのタイミングで答えを得られるなんて。
唇を真一文字に結び、碧色の瞳を爛々とさせてフリュトから送られた内容を見ている騎士を、ツェルとオボア、それに姫君が無言で見つめていた。姫君は起きていたが、子供のようにあどけない笑顔を浮かべることはなかった。今日の彼女は人形のようだった。目は開いていたが、反応がない。
それでよかったように思う。自分のこの行き場のない感情を彼女に気取られることはないのだから。姫君は、どれだけ隠したとしても騎士の変化に敏感に気づく。どうしたの? なんでそんなに怒っているの? 彼女にそう聞かれたら、ごまかしきる自信がない。
自分が武装集団領で育ったことは、誰にも言ってはならないのだ。それが知れたら、大切な大切な、自分がやっと得ることが出来た家族が崩壊してしまう。ずっと傷つけられ、それでも気高く心優しい母、他の男の息子なのに自分を引き取り愛してくれる養父、何も知らず自分を慕う無垢な妹、血のつながらない自分を兄と呼んでくれるいとこたち――みんなみんな傷ついてしまう。
自分の中に溢れかえった感情を言葉にすることはできず、騎士はただ俯いた。拳を握り、こらえきれずに自分の腿に打ち付けた。鈍い音に、ツェルがびくりと反応した。
そんな騎士を前にしても、姫君は人形のような無表情のままだ。でも、本当にそうなのだろうか? どんよりした茶色の瞳の奥が、ちかちかと瞬いている。涙で同情を示そうとしても、そうできないのかもしれない。言葉を発せるなら、彼女は騎士にあたたかい言葉をかけたいのだろう。腕が動くなら、騎士を抱きしめたいのだろう。姫君はそういう心優しい少女だったのだから。いつだってそうだった。騎士がめげている時、両親すら声をかけられないほどかたくなになっている時、彼女だけはいつもさりげなく近づいて、寄り添ってくれた。
でも、今の彼女はそうしてくれなかった。体はここにいるのに、心が壊されてしまった。どんな医術や治癒の能力も、彼女を元に戻せない。戻す方法を知っているのは『エレフセリア』だ。
だから彼らを追っていたのだ。そして、彼らが関わったものの中に兵器の非合法取引を行っている悪魔のような団体があったことに気づいた。彼らは戦災孤児のための寄付金を集める裏側で武器の密輸を行っていた。だから、武装集団は終戦後も武器を手に入れることができた。戦闘が続いて、何の罪もない子供たちが何人も何人も地獄に放り込まれた。断じて許せない、見逃せない行為だった。
怒っても問題ない。怒って当然だ。ツェルもオボアもこの情報をはじめて知った時に怒っていた。口調を古語調に改めたフリュトもそうだった。
その怒りは一般の、当事者ではないガイア国民のものだ。騎士は当事者だから、怒りの度合いが違う。でも、当事者であることは知れてはいけない。引き取られて以来、少しだけ年かさの自分とずっと友達でいてくれる彼らに対しても。
それでも、表情が歪む。吐息がもれる。どれだけ隠そうとしても隠しきれない、人生を丸ごと狂わされた人間としての悲憤がふきだす。
碧眼を恨みでぎらつかせ、必死に感情を殺そうと耐える騎士の姿は、あまりにも痛々しかった。ツェルはオボアと顔を見合わせた。オボアが目顔でツェルに問いかける。彼女はそれを見て、小さく頷いた。オボアも頷き返した。
「騎士」
ツェルが、静かに騎士を呼んだ。
一瞬、ためらうように顔を伏せ、胸の前で手を握って。
「あたしたち、何も見てない。何も見なかった」
「ツェル?」
意図がわからず、騎士はただ彼女の名を呼んだ。
「何も、見ないことにする。貴方が、何を思っているのか、どうするのか、あたしたちにはわからない。わからないの」
彼女は必要以上に言葉を句切った。何かを確認するように。
「だから、ひとつお願いよ。何も見ないから――あたしたちにも、何も聞かないで」
騎士は硬直した。
ツェルは知っている。オボアも知っている。
けれど、聞き返すことは出来ない。約束を今かわしから。
ツェルは騎士の手を取った。
「お願い、苦しまないで。姫君が元気なら、きっとこう言うわ」
「……お前は『姫君』じゃない」
嫌悪感もあらわに、騎士は吐き捨てた。自分を思ってくれた友人に、何て酷いことを言っているのだろう。頭ではわかっているのに、捌け口を見つけた心は、容赦なく心優しい友人に八つ当たりをする。
「わかったような口を利くな!」
騎士はツェルの手を振りはらった。拍子に、爪が彼女のかさついた手を掠める。さすがにツェルがもう片方の手で抑え、表情を歪めた。オボアが慌ててツェルをかばい、割ってはいる。
「にいちゃん!」
「……ごめん」
騎士は俯いた。
「でも、元気だったらなんて言わないでくれよ。そこにいるじゃないか」
呻くようにして呟く。
確かに、体はそこにいる。でも、抜け殻だ。『彼女』はそこにいない。
「姫君を返してくれ……頼むよ。おれにとって何より大事な人なんだ」
地獄にいた自分を拾い上げたのが義父であるなら、光を差し掛け、道を示してくれたのは彼女だから。
その最愛の彼女をこんな状態にしたのは――手の届かない場所に連れ去り、地獄を見せ続けているのは『エレフセリア』だ。武器の横流しなんかをやる団体と手を組む極悪人だ。
ふたつの憎悪が、内側でひとつに混ざり合い、より暗い感情になる。光の消えた目で、騎士は譫言のように言った。
「消えてしまえ」
それは呪いに等しかった。
「どうして」
一体なぜ、こんな事態になってしまったのだろう?
「おまえたちのせいだ」
手の届く距離にいるのに、彼女は遠い。騎士の視線の先の姫君は、まるで作り物の人形のよう。
自分の腕の中で生き生きと笑っていたのは、本当に最近のことだったのに。
「こんなにも愛しているのに――」
狂いだした愛の言葉は、彼女まで届かない。
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