桜の雨が降る 3部3章4
結局、優桜はその後三日間のほとんどをコピー用紙の問答を覚えることに費やした。これが本当に台本だったら投げ出しただろうが、一問一答形式だった。そしていちばん最初に太文字で、答えられないと思ったら『その件はグリーンから説明します』と投げるように指示されていた。最初に言ってくれればそんなに身構えなかったのに。
緊張感はそれで随分と緩和されたが、だからといって覚えるのを放棄して全てウッドに任せるほど優桜は『真なる平和姫』の責任を放棄してはいなかった。
そうして週末が来た。メリールウはあたたかいご飯を作って優桜を送り出してくれた。「夕飯はお野菜いっぱい入れてシチューにするから」と笑ってくれた。そういえば、昨日、店に出せない端物の野菜をもらったのだった。
階段をおりて事務所に行くと、ウッドは既に来ていて支度をすませていた。ここのところずっと楽な服装でいた彼だが、今日はスーツ姿で髪を束ね、かつ整髪剤で固めていた。普段は猫背気味の姿勢を正していたから、その時はじめて、優桜は彼が明水と同じくらいに背があるとわかった。ずっと、明水より小柄だと思っていた。
「いつもより真面目そうだね」
優桜がそう言うと、ウッドは表情を緩めた。
「フリだよ。真面目なフリ。ティーピーオーだな」
「その場に合わせて……ってこと?」
「人間は外見で先入観持つからな」
ウッドは時計を見て、そろそろ出るかと優桜を促した。
オフィス街に向かい、優桜がランニングをしている公園の近くにバス停があった。この世界で優桜ははじめてバスに乗った。普段、優桜はバス通学だから慣れているはずで、バスの中は優桜が知っている現代のバスとほとんど変わらなかったのだからおかしいことなんてなかったはずなのに、なぜか緊張した。
バスには終点まで乗った。そこは鉄道の駅だった。たくさんの人がいたけれど、やっぱりメリールウと同じ人はいなかった。そして、ここにいれば彼女は目立ってしまうと感じた。
「硬くなるなよ。いつものままでいいから」
指定されたホテルが見えたとき、ウッドは優桜にそう言った。
「力、入れなくていいよ。一度深呼吸。ほら」
言われて、優桜は深呼吸した。
「最悪はミスっていい。オレがなんとかしてやるから」
それは、ウッドがいつも繰り返す言葉だった。力強く聞こえた。頼りにできるとそう感じた。
優桜は、頷くと、手にしていた桜色の鞘の剣を持ち替えた。
剣道の試合と同じだと思うようにつとめた。相手に先攻するんじゃなくて、相手の手を読む。打ってきた隙をついて、反撃をする時と同じ。
自分からは行動を起こさない。相手に対応して反応を選べばいい。
決められた時間の十分前に現れたアッシュ商会の会長は、ウッドと同じように硬い印象で、ネクタイと黒縁眼鏡の壮年の男性だった。ひどく真面目そうで、柔和な笑みは誠実そうに見えた。同じような眼鏡の、こちらは若い男性を連れている。若く見えるが、それでもウッドと同年代か、相手の方が少し年上だろう。こういう場面は不慣れなのか、少しばかり落ち着きがないようにも見える。硬そうなこの一団の中で、セーラー服の優桜だけが奇妙に浮き上がっていたが、それを気にする周囲の人はいなかった。あらかじめそう手配したのか、優桜たちの席は奥まった場所に用意され、周囲に奇妙なほど他の客がいなかった。
先方の第一声は「お待たせしてすみません」というマナーにかなったものだった。時間に遅れてなんかいないのに。
ウッドも形式通りに挨拶をして、優桜を紹介してくれた。優桜は「はじめまして」と最小限の言葉で切り抜けた。もちろん、微笑むのを忘れずに。先方の紹介もされた。会長本人と、最近就任した若手の秘書ということだった。
そこから先はウッドが会話を取り仕切り、優桜は必要な言葉を挟むだけに留めた。台本にあったと思われるものはそのとおりの対応をし、予定外の話題はウッドに任せた。でも、そんなに口を利く機会は多くなかった。
先方は真剣に話に取り合ってくれていた。ウッドと議論の応酬をすることはなく、淡々といろいろなことを確認していた。
自分たちのしていることに、絶対的な誇りと自信を持っているのが伺えた。確かに、誇りにしていいと優桜は思った。支援を続けるのは、難しいと感じるから。
会話は三十分近く続いただろうか。
「――なるほど。結構です。よくわかりました」
会長は秘書と目を合わせて、静かにそう言った。
「あなた方の理念は私どもにも共通するものです。協力させて頂きましょう」
「ありがとうございます」
ウッドは一度頭を下げると、右手を差し出した、相手がそれに応じる。
優桜は安心で息をつきたくなったが、直前で止めた。
そこからも少し話をして、正式な協力の書面を後日交わすことになった。その時はホテルではなく、法律事務所ビルで行うとのことだった。
また型どおりに挨拶し、先方を見送る。相手が喫茶室を出て行くのを確認しても優桜は背筋を伸ばしていたのだが、ウッドは相手が出ていくといつもの姿勢に戻していた。
「優桜。お疲れさん」
優桜はおさえていた吐息をもらした。
「すごく緊張した」
「たいしたもんだよ。初対面じゃ緊張してるってわからんかっただろ」
「ウッドにはわかったの?」
ウッドはまだ手をつけていなかった紅茶のカップに手を伸ばした。彼はひとりだけ、コーヒーではなく紅茶を注文していた。ガイアにも紅茶はあって、やはり香りがいい。こういう時は大人はみんなコーヒーを頼むものだと優桜は思っていたから、意外だった。
「声の調子がいつもと微妙に違ったからな。でも、初対面では気づかない」
相手とかち合わないように、少し時間を潰してから出たいとウッドは言った。
「何か頼んでいいぞ。こういう時間って、ケーキセットとかやってるんだろ?」
「いいの? って、お財布持ってないや」
「そのくらいは出してやるよ。必要経費だ」
言われて、優桜は端に追いやられていたメニューを取り出すと、先ほどは飛ばしていたケーキのページを眺めた。さっきは無理してコーヒーを注文していたから、思い切り甘いものを食べたい気分だ。
でも、赤い果実のタルトを見たら、しゅんとしおれてしまった。
「ウッド、これ持って帰ったら駄目?」
「なんでだ?」
「メリールウに食べさせてあげたいから」
アパートでひとり待っているメリールウを思い出したのだ。ホテルのケーキが庶民は気軽に買えない高級品なのは、ガイアも日本も同じ。
「一緒だったらよかったのに」
「それは無理な相談だな」
ウッドは言うと、残っていた紅茶を一気に飲んでしまった。もう冷めているのだろう。
「ワンダラーだから?」
「まあ、それもデカいけどな。いちばんは性格だ。あの子供っぽいのをやられたら、今回みたいな格式張ったのは無理」
それはいいことなのか悪いことなのか。優桜はちょっと判断ができなかった。
自分にどうにもできないけど、多少は変えられる外見を悪く言われるのと、自分で何とかできるけどそう簡単には変えられない性格を悪く言われるのは、どちらがしんどいだろう。それを判断するのはメリールウであって、優桜ではないが。
「あと持ち帰りも無理だな。ケーキの包み下げてホテル出たらおかしい」
確かにそう思ったので、優桜は頷いた。
「……事務所まで戻ったら、何か奢ってやるよ」
「本当?」
「経費にこじつける理由を考えておいてくれ」
どうやら、ウッドは自腹を切る気はないらしい。
結局、優桜は一番値段が安かったチーズケーキのセットを頼み、ウッドは二杯目の紅茶を頼んだ。
「紅茶好きなの?」
「人に入れて貰うなら。コーヒーより飲みやすいし」
ウッドは一瞬だけ、思い出すように琥珀色の瞳を細めた。
「あたしも、紅茶好きだよ」
「さっき頼まなかったのに?」
「ああいう時はコーヒーだと思ってたの」
ウッドは紅茶に砂糖とミルクを入れてかき回しながら、小さく笑った。
「よくあるアレか。思春期のガキが大人ぶって、ホントは苦くて嫌いなコーヒー頼むアレ」
優桜はむっとしたが言い返せなかった。その通りだったから。特に明水が一緒の時は、優桜は本当はミルクティーが好きなのにわざとコーヒーを飲んでいた。それも砂糖抜きで。どこの世界でも、そうやって大人ぶるのは同じなのか。
そのあと、時間つぶしに紅茶の話をした。飲み方は現代と同じで、当たり前だが産地が違っていた。日本だと、国内の生産はあまり行っていないのだが、ガイアは自国に生産地があるのだと言う。
小一時間をそうやって過ごし、ウッドが会計を済ませるのを優桜はロビーで待っていた。興味本位で見回しているうち、優桜は数メートル先のソファで、先ほどの秘書が通信機械を使っているのに気づいた。
(あれ?)
時間をずらしたのに、どうしてまだいるんだろう。
優桜は気づかれないように、さりげなく観葉植物の陰に隠れた。相手は優桜がそこにいることはわかっていないようだ。声を潜めてはいるが、ロビーが混雑のわりには静かなので、優桜まで聞こえた。
「ええ。プロファンダムです」
うつむきかげんに、口元に手を当てている。
「レンコンを。数は3ユルです」
ユルとはガイアの数の単位で、優桜のわかる言葉に置き換えるとダースになる。違うのは、対象の物が動物か静物かの違いで、十を意味したり十二を意味したりと変わる部分だろう。なんでこんなややこしい数詞を使っているのか。メリールウすら間違わないのは驚きを通り越してむしろ怖い。
プロファンダムはどこかで聞いた気がする。地名だっただろうか。レンコン、と言っているから野菜の話だろう。穀物を中心に扱う問屋と聞いたから、野菜を一緒に扱ったとしても別におかしくない。休日にこんなホテルにまで呼び出されてなお仕事の話だなんてたいへんだ。
その時、会計を終えたウッドが喫茶室から出てきたので、優桜は彼に近寄った。「あっちにまだいる」と小さく言うと、ウッドは眉を寄せた。
「せっかく時間潰したのに。気づかれないようにさっさと出るか」
優桜は頷いて、ふたりで足早にホテルをあとにした。
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