桜の雨が降る 3部3章3

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 ウッドが丁寧な挨拶状を書いたのかを知る機会はしばらく訪れなかった。気にはなっていたのだがウッドに聞くのを忘れていたのだ。顔は何度か合わせたのだが――昼間忙しく働いたり調べ物をしているうちに、考えが他の方に動いてしまって、夕食を一緒にする頃には忘れてしまった。寝る前にはっと思い出し、朝までは何とか覚えていて翌日の日中で他のことに気を取られ、という不毛なループをやっていた。
 その日は給料日だった。食堂の給与は週払いされる。振込ではなく現金支給で、仕事終わりに封筒に入ったお金と明細表をもらい、確認したら封筒は経理の男性に返す。
 給料日はいつも気分が浮き立つ。メリールウも同じなようで、彼女の仕事における凡ミスはだいたいこの日に発生する。が、やはり他の人も機嫌がいいのは同じなのか、わりと軽く見逃されていた。皿をしまう位置を間違える程度だからだろうが。
 最初の頃は一時期、仕事場の空気が険悪で本当に気まずかったのだが、今はそうではなかった。挨拶は当たり前のように返ってくるし、雑談する時すらある。メリールウを含めて。
 仕事が終わって、待ちに待った封筒が渡された。今日封筒を渡してくれたのは、いつもの経理の男性ではなく、この前優桜が見かけた淡い金髪の少年だった。慣れない手つきで、おっかなびっくり女性達の相手をしている。優桜はロッカーで封筒を開けた。お金と白い紙に印刷された明細が入っている。額を確認しようとして、優桜は白い紙に書かれているのが金額でないことに気づいた。
『二十二時に事務所へ』
 わかりやすい字体で、緑色のペンを使ってそれだけ書かれていた。
 顔を上げると、メリールウがこちらを見ていた。手に給料の封筒と明細――明細に見える紙を持っている。たぶん、内容は優桜と同じだ。
 指定の時間に事務所に行くと、帰り支度をした先ほどの少年に会った。遅い時間なのに、まだ仕事をしていたのだろうか。中身の入った紙袋を持っている。
「それじゃ、先生。失礼します」
「ご苦労さん。こっちも助かってるよ。あと何日かだけど頼むな」
 ウッドはそう言うと少年を送り出した。
「あの人は誰?」
「クラウスのお手伝いさん?」
「うちの元お客さん。資産家だったんだが、残念なことに、ご両親が相次いで亡くなった。遺産を相続したんだが、あの悪名高き家督分割法案に従って相続税を納めると、遺産を全部売り払ってもマイナスになっちまったんだ」
「え」
「後からそれがわかって、慌ててうちに来た。なんとか差し引きゼロには持ち込んだけど、いきなり親も家も失ったら、まあヤバいわけだよな」
「それで仕事をあげたの?」
 ウッドは人の悪い笑みを浮かべた。
「依頼料も払えません! って泣きつかれたから労働で払ってもらってるだけだよ」
 優桜は思わず黙りこんだ。ウッドは涼しい顔で笑みを浮かべている。
「オレは慈善家じゃないんでな」
「ね、なんでこんな面倒な呼び方したの?」
 メリールウが問いかけた。場の空気をわかっているのか、いないのか。
「他の人がいる前で見ちゃうとか、気がつかずに経理の人に封筒返しちゃうとかあったかもしれないのに」
「いや、それはないだろ」
 ウッドは苦笑いで言った。
「給料袋に中身を残して返す奴はそうはいねえよ」
 優桜はきょろきょろと周囲を見回した。
 食堂はもう閉まった時間だ。事務所の従業員もみんな帰宅している。四階のアパートには人がいるだろうが、よっぽどの大声を出さなければまず聞こえない。
 それでも、優桜は可能な限り声を小さくした。
「エレフセリア?」
 そうだよと、ウッドはあっさり頷いた。
「この前の返事が来た。直接お会いして詳しいお話を――だと」
「誰に連絡を取ったの?」
 ウッドがエレフセリアとして何をしているのかは、優桜は、おぼろげにしか知らない。尋ねたことはある。自分がやっていることを、ちゃんと知っておきたいから。
 ウッドの回答は『時期尚早』だった。いずれ説明するが、今はまだ早いよと笑ってごまかすのだ。そうされると食い下がる手立てがなくなる。
 おぼろげに知っている内容は、ウッドは資金を調達しているということだった。この前の交渉相手はおおよそ得体のしれない商人で、そうやって都合したお金の一部は、どうやら救済に使っている様子だった。彼を頼って事務所の扉を叩く人の悩みを、僅かでも軽減するために。
 その相手に、自分の考えを伝える。格差を是正したい。弱い者が虐げられるこの社会を変えたい――と。
 それはとても微細だった。予防接種のようだと優桜は感じた。病原菌を薄めたもの。本当は体にとってよくないもの。一瞬ちくっとする、でも、すぐに忘れる。休んでいる間にじわじわと回り、体中に行き渡ったら、毒から免疫へと――体を守るものになる。最初は有害なものだったはずなのに。
 彼の行動も、そうなるのだろうか。いや、そうならなきゃいけないんだと思う。毒のままで終わるわけにはいかない。でも、効果を発するのはいつなのか、優桜にはわからない。
 優桜は漠然と、また得体の知れない人に力を借りるのかなと思った。しかし、ウッドが示したのは優桜の予想に反したものだった。
「メリールウ。アッシュ商会って知ってる?」
「はいはい。食べ物のお店だよ。街の反対側にあるんじゃなかった? 戦災孤児のための募金をやってるとこ!」
「よくできました」
 ウッドは軽く両手を叩いて、すぐ止めた。
「中央首都には一軒あるだけだけど、北部以外の主要地方に一店舗ずつ展開してる。扱ってるのは主にポスタルだから、堅い商売だな」
「ぽすたる?」
 耳慣れない単語を優桜は問い返した。
「え? ユーサ、ポスタル食べてるじゃない?」
「食べ物なの?」
「そっか。優桜にはわからんのだな」
 ウッドはこめかみを指先で叩いて、優桜にわかる説明を考えているようだった。
「穀物。そうだな、小麦はわかるか? ポスタルは、小麦と似た穀物の名前だ。安いコストで手に入る」
 優桜は頷いた。
「小麦はわかる。えっと、代用品ってこと?」
「そうそう。小麦より育てやすくて大量に収穫できるから、内戦で作物の安定供給が難しい頃は重宝されてたんだ。今は今で、経済状態があんまよくないから、小麦に混ぜてかさ増ししてるって仕組みだ」
 味は落ちるんだけどと、ウッドは付け加えた。食べ物は人間が生きていくには欠かせないのだから、需要は決してなくならないと言っても大げさではない。なるほど堅い商売だ。
「アッシュ商会って、穀物問屋というよりは雑穀問屋なんだよ。代々商売をやってるけど小麦とか米とか、流通の中心のものが主力ではなくって、雑穀でやっていけているのは、必要としてくれる低所得の消費者がいるおかげだって」
「それって、貧しい人のこと貶めてない?」
 優桜の疑問をウッドは見越していたようだった。
「だから、アッシュ商会は利益を社会に還元してる。元々は自分たちだけで戦災孤児に支援をしてたんだけど、内戦に決着がついたあたりからは各店舗に募金箱を置いたり、それ用の銀行口座を開設して一般が募金できる場を広げたんだ」
 庶民のために雑穀を商ってくれる硬い会社であり、支援の実績がある。アッシュ商会に預ければ安心だ。自分たちの気持ちは、内戦で犠牲となった子供達に届く。
 そういう偉い組織なのだそうだ。
「この前と全然ちがう……」
 一体いついい話にどんでん返しがくるのかと疑っていた優桜は、きっと心が歪んでしまっているのだろう。
「そりゃ、できるだけ真っ当にすませたいもん」
 極左と自身を称したこともある人物は、平然とそう言ってのけた。
「だからお手紙を考えてたんだ」
「ご名答。今日は冴えてるな」
 ウッドが手を伸ばして、メリールウの赤毛を乱暴にかき回す。
「で、考えた成果があって、先方と顔合わせの機会をとりつけられたってワケ。そこで優桜の出番が来たよと」
 優桜とウッドの目が合う。
「あたし、また笑ってたらいいの?」
 ウッドは唇を歪めて笑った。
「今回はセリフつき。急造役者になってくれ」
 ウッドは机からコピー用紙の束を優桜に渡した。五枚くらいある。
「……これ何?」
「カンペだよ。想定される質問事項を書いてあるから覚えといて。あ、顔合わせは週末だから」
 ウッドが切った期限は三日後だった。微妙な数字だ。
「あの、もし何か間違ったら」
 優桜は青ざめたが、ウッドは笑っているだけだった。
「大丈夫だよ。優桜ならできるさ」
「そういうんじゃなくって」
「場所は駅前のホテルの喫茶室だから。日にちは取り付けたけど先方が時間を保留にしてるから、決まったら教えるよ」
 ウッドは会話を終わらせたいようで、早口に言った後で顔を背けた。欠伸だったようだ。時間が遅いから、確かにもう眠いかもしれない。
 メリールウは何か考えるように顔をうつむけていたが、優桜とウッドの会話が途切れたタイミングで口を挟んだ。
「駅前で堅いお仕事の人なら、あたしはいかない方がいいよね?」
「……そうだな」
 ウッドはやや歯切れ悪く返した。
「え、どうして?」
 優桜は驚いて、声が跳ね上がった。エレフセリアだから、メリールウは当然一緒だと思っていた。
 優桜のその反応は、ウッドとメリールウには予想外だったようだった。
「どうして、ってそりゃ」
 言いにくそうなウッドの態度で、優桜はそれを察した。メリールウが放浪者だから。
 堅い商売をする地位がある人には、放浪者との関わりはまずいことなのだろう。
「なんで? なんで外見とか出身で差別するの? それっておかしいよ」
 メリールウは何も言わず、いきなり優桜に飛びついてきた。ぎゅうっと抱きつかれ、優桜はコピー用紙を取り落としてしまった。
「メリールウ?」
「ありがと、ユーサ」
 いつもの彼女からは想像のつかない、か細い声だった。
「……ホント、何でなんだろうな」
 コピー用紙を拾いながらウッドが呟いた。
「人間なんて、一皮剥けば何考えてるかなんてわかんないのにな」
 悔しそうだったから、彼が優桜と同じく憤っているのは伝わってきた。
「昔からずっとそうやってきました、なんて理由になってないのに。何でなんだよ」
 その疑問に答える人はいない。
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