桜の雨が降る 3部1章4

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 明水は翌朝、開館と同時に市の図書館に入った。仕事の関係から、明水には定期的に読書をする習慣がある。そのため、図書館に慣れていた。司書に頼めば古い新聞を見せてもらえることを明水は知っていた。それが二十年以上前のものでも。
 さすがに原本は置いていなかったが、大手新聞社の物は保存用の縮刷版があり、それを閲覧することができた。ひとつ気になったのは、どの新聞社も、祖母の死因を「変死」と扱っていたことだった。なぜ亡くなったかが書かれていない。
 スポーツ新聞ならまだ情報が書いてあるかもしれないと思えたが、そちらは生憎、縮刷版でも保存されていなかった。東京の国立国会図書館まで出向けば何とかなるのかもしれない。
 明水は複写した新聞を前に、図書館の自習室にいた。この市立図書館は、集団で使える大テーブルの他に、個人での学習用に、長机を木製のボードで一人用に区切ったスペースを提供してくれている。明水はそれが気に入ってこの図書館を愛用していた。授業の調べ物をしたり考え事をまとめるのにとてもいい場所だった。そういう時はもちろん、気分が沈んだ顔を周囲に見られたくないときにももってこいだ。
 この件で、今も気落ちしていないかと問われれば、もちろん、気落ちしている。気持ちが沈まない方がおかしい。だから、優桜もあんなに泣いたのだろう。
 そう考えたら、あの時何もしてやらなかった自分に腹が立って仕方なかった。なんで、もっと聞いてやらなかったのか。優桜が不安定な気持ちのまま事件に巻きこまれたとしたら、正常な判断ができず、取り返しのつかない事態を招きかねない。気持ちばかりが焦っていく。
 東京の国立国会図書館まで出向けば、二十年以上前の新聞も、雑誌も閲覧できるはずだから、情報が途切れるわけではない。自分が滅入ったり立ち止まったりするわけにはいかない。そう、弱気になる心に檄を飛ばす。自分なんかより従妹のほうがずっとつらい思いをしているはずだから。
 欲しいのは、優桜に何が起きているかの情報だ。事件自体を暴いて白日のもとに晒そうというわけではないから、優桜と関わりがないと判断できれば思考の範疇から外してしまえばいい。外側からの情報は、インターネットや新聞でそこそこの物を得ることはできそうだ。しかし、内側の――身内からの情報にはあまり頼れない。こういう理由があったからこそ、父の態度があんなに厳しかったのだと、今では納得する。父がどこまで知っているかは、明水には現時点でわからない。わかる必要はないかと思っている。
 結論として、内情を探る方が難しい。検索サイトもヘルプデスクもないのだから。パソコンに慣れてしまっているからこういう思考になるんですよと、明水はひとり笑った。自分が悠長に先生稼業をやっていられるのは、図書館やインターネットで調べることができる現代だからこそだ。シャーロックホームズやエルキュール・ポアロ。古典の名探偵は、どうやってあんな難解な事件を解く知識を得たのか。教育を受ける機会は現在より少なかっただろう。ミス・マープルなんか、事件現場に行かずに自宅の安楽椅子で事件を解くのに。
 いちばんいいのは、やはり当事者から聞くことだ。しかし、優桜は行方不明で叔母は意識不明である。話を聞ける状態ではないのだ。叔父に聞くのが早道だとは思うが、仕事の調整で精一杯の状態の叔父に今聞ける話題ではない。推量ばかり頭の中で広げてもどうしようもない。
「……安楽椅子探偵にはなれそうにないですね」
 明水は苦笑いすると、ひとつ、頭の中で計画を巡らせた。
 現時点での困難は少ない。計画通りに運んでくれれば後々に大きな問題になることは特になく、ほぼ確実にそう進むだろうと判断すると、明水は図書館を出て魚崎法律事務所のある駅へと向かった。時刻はまもなく正午。昼食をとりたいと思ったのだが、それをしてしまうと計画に差し障りが出る。この時間なら目当ての人物も自分の席にいるだろう。
 明水の推測通り、目当ての人物である叔父は机で昼食を食べていた。事務所の近くのコンビニの袋が置いてあるから、そこで買ってきたのだと思われた。
「明水? 優桜が見つかったのか?!」
 開口一番、叔父はそう言った。
「いえ……特に進展は」
 そう告げると、叔父は痩せた肩を落とした。見るからに疲れている。それでも、彼は必死に事務所を切り盛りしていた。明水の両親が仕事を休ませようとした時、叔父はそれに反対した。結女と守ってきた物を潰してしまうわけにはいかないし、優桜が戻る場所をなくすわけにもいかない、と。そして、疲れた様子ではあったが、それでも懸命に頑張っていた。
「こんな時にすみません。ちょっとお願いがあって」
 明水は言いにくく切り出した。この計画でいちばん邪魔になるとしたら、それは自身の後ろめたい気持ちだ。
「授業で急に必要になった本があるんですが、それをユウに貸していたんです」
「ああ……」
 叔父の顔がさっきより曇った気がする。それはそうだろう。この一大事に本なんかの話をされたくないだろう。ごめんなさい叔父さんと、明水は内心で平謝りした。
「ここに来たくらいだから、すぐ必要なんだろうね」
 しばらくして、若干皮肉な口調で叔父は言った。すみませんと、明水は頭を下げる。
「今取りに帰るわけにはいかないし、今日も遅くなる。悪いけど家に入って取ってくれないか?」
 そう言って、叔父は自宅の鍵を出すと明水に手渡した。
「すみません。ありがとうございます」
 明水は叔父が差し出した鍵を受け取った。玄関の植木鉢の下に入れておくと言って、明水は礼を言うと早々に魚崎法律事務所を出た。足早に駅まで歩いてから、雑踏に紛れて息を吐く。まだ心臓がどきどきしていた。
 明水は、優桜の自宅に入りたかったのだ。
 優桜に貸した本が早急に必要になったと言えば、自分で探す時間のない叔父は、明水に鍵を渡して取りに入るよう言うと思った。すべて計算ずくの行動だ。
 明水は、実際には今、優桜に本を貸していない。しかし、これまでに何度も貸したことがあるため、おそらく、嘘には聞こえない。
 優桜の自宅に怪しまれず入る方法を他に思いつかなかった。自分の信用を逆手に取っているとしか言い様のない行動なので、心が痛い。しかも、心が痛むのはさらにここからだった。女子高生の部屋を家捜ししようとしているのだから。
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