桜の雨が降る 3部1章2
携帯電話の登録データから、明水はその番号に電話をかけた。コール音の代わりに音楽が聞こえる。心の芯に響きかけ、高揚させる力強いリズム。Queenの「We Will Rock You」だ。兄は昔からこの曲が好きだった。
電話をかけた相手は、三歳年上の兄だった。
現在、東京都内で総合商社に勤めている。四年前にそちらで所帯を持ったので、同居はしていない。
美桜叔母が事件に巻きこまれ亡くなった時、明水は三歳だったので詳しいことは覚えていない。だが、小学校に上がる年だった兄は美桜を覚えていた。
兄なら、何か知っているかもしれない。真実は隠されていても、幼子の純粋な目には何かが映っていたかもしれない。情報の信憑性は低くなるかも知れないが、少なくとも明水にとって、兄は父よりは会話を引き出しやすい相手である。
繰り返しのフレーズが二回目になったところで、電話がつながった。
「もしもし」
『もし?』
聞こえてきたのは兄の声ではなく、舌足らずな子供の声だった。
『もしー?』
思わず、明水の頬が緩む。
「英太くんですか?」
『うん!』
英太、というのは兄の息子の名前だ。明水の甥っ子、ということになる。
二歳半になるこの初孫が明水の両親はかわいくて仕方ないらしく、二人の携帯電話は英太の写真や動画でいっぱいになっている。もちろん、明水もいくつか貰ってデータフォルダに入れているが。
「英太くん、パパはいますか?」
『あのねー、えーたくんこーえんいった!』
「うん。あのね英太くん、パパ、そばにいる?」
『ぶらんこいっぱいでねー、しゃべるした!』
「うん。楽しかったね。それでね英太くん、パパは?」
英太は可愛いのだが、いかんせん彼では話が通じない。この年の子を否定するわけにもいかないので、なんとか文句を変えて電話をかわってもらおうと四苦八苦する。
『あのね、ぞーさんがね』
『あっ、英太くん何で携帯触ってるの?!』
その時、電話の向こうで女性の声がした。電話からがさごそと音がする。続いて英太がむずがる声がした。
『パパのおでんわは英太くんのおもちゃじゃないのよ。あれっ、これつながってる? もしもし?』
『義姉さん?』
『? もしかしてアキくん? ごめんね、英太くんが携帯で遊んじゃったみたい』
目を離すとすぐやんちゃするんだからと、義姉が詫びてくれたのであわてて明水は否定した。
『パパに携帯は高いところに置いてって言ってるんだけど』
「いや、義姉さん、こちらからかけてますので」
『そうなの? それにしても、相変わらず硬いなアキくん。そんなに年違わないんだからスゥさんでいいって言ってるのに』
電話口で義姉が笑っているのが見える気がした。おもちゃを取られてぐずる英太を抱き上げている気配がする。
明水の兄の妻である彼女は、名前をなんと「星(すてら)」という。外国人ならまだ驚かないのだが、旧姓は斎藤で、正真正銘の日本人だ。七月七日に生まれた女児に両親が張り切った結果の名前だと、本人は初対面の挨拶の後で憤っていた。どうも学生時代にだいぶからかわれたようである。
その結果として「自分の子供には日本の古き良き名前を!」という思考に至った彼女は、お腹の子供が男の子だとわかった時に「太郎男(たろお)」と名付けようとした。それは別の意味でからかわれるからと夫である明水の兄以下魚崎家が総出で止めにかかり、挙句に向こうの両親まで出てきて揉めに揉めた結果、赤子の名前は母親である星の発案を尊重し、祖父に当たる明水たちの父から一文字もらう形の「英太」で決着することになった。
わりと大騒動になったこの件は優桜も知るところとなり、彼女の感想は「名付けって親の理不尽だよ」という怒りだった。優桜の名前の理由は知っているし、『優桜』と書いて『ゆうさ』という読みは子供泣かせの難読読みであるのは間違いない。明水はそれ以上何も言えずにただ「僕も女性によく間違われる」とぼやくに留めた。明水の名前もだいぶ紛らわしいのだ。とある四字熟語が語源でその意味は明水も好いているのだが、どう見ても初見だと読みが難しい挙句、音に至っては高確率で女性だと思われる。
脳裏によぎった優桜の姿に、明水は自分がやることを思い出した。
「スゥ義姉さん。敏行兄いますか?」
『あー、パパ今お風呂入ってるのよ』
今日は帰りが早かったのと、義姉はそう言って笑った。
「そうなんですか」
それではあとでかけ直しますと言いかけて、ふと、明水は義姉の話を聞いてみようかと思い立った。義姉は活発な、テレビで流行り物を追いかけるのが好きな少女だったタイプの人である。それに、子育てに忙しい彼女と話す機会はめったにない。親族という概念のない距離では、深川結女はどういう存在だったのか。聞いてみるにはいい機会といえた。
「義姉さん。深川結女……ってご存じないですか?」
「深川結女? どっかで聞いた気がするけど……あー、もしかして昔の芸能人じゃない?」
明水は適当な作り話をした。生徒から「先生が子供の頃に活躍した美人のタレントだ」と言われたのだが、あいにく、あまり覚えていない。敏行兄や義姉さんなら何か知らないかと思った、と。
「深川結女ってそんなに美人だったんですか?」
明水の問いかけに、そうだよと義姉は朗らかに笑った。
「クールビューティー、って言うのかなあ。本当に頭良さそうな人だったよ。それでいて、話をするとそんなにとっつきにくい感じもしなくて、それがウケたのかなあ……あたしも当時は子供だったから、上手くは言えないんだけど」
そういえば、と義姉は続けた。
「妙な噂のある人でもあったね。妹さんが自分のストーカーのせいで亡くなったのはトップニュースだったけど、その前にお祖母さんも何か不自然な死に方したのよ。連続で身内が亡くなったのは、彼女が自分へのマスコミの注目度を上げるために何か工作したんじゃないか……って」
どこからワイドショーのコメンテーターが一度口にしただけだったが、その意見があまりに怖い内容だったから覚えていたと彼女は言った。テレビに出続けるために自分の親族に危害を加えただなんて、狂気もいいところだ。
「そうなんですか」
なるべく平坦に聞こえるように相づちを返しながら、明水は自分の気持ちが震え出すのを感じていた。
叔母は倒れたとき、妹を呼んでいたと看護婦が言っていた。ごめんと謝っていたと。
明水は、自分の身代わりで亡くした妹が気にかかっていたと思っていた。それは、優桜も、明水の両親も同じだっただろう。
そうではなかったとしたら。死を前にして、自分が殺めた妹に詫びていたのだとしたら。
背中がざわついたように明水は感じた。この仮説は、怖すぎる。
深川結女に関して、それ以上の情報は得られなかった。電話口で英太がぐずりだしてしまったから。
手短に礼と引き留めた詫びを告げ、兄にはあとでメールしておきますと付け足して、明水は電話を切った。
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