桜の雨が降る 2部2章3

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 その日、優桜ははじめて眠れない夜を過ごした。目を閉じても一向に眠くならず、目を開けてロフトの天井を眺めてみるが、眠気は訪れない。そこにいるメリールウの寝息は聞こえているから、彼女はとっくに夢の中なのだろう。
 優桜は枕元に立てかけた、細身の剣を眺めてみた。外からの薄明かりに、桜色の鞘が僅かに光ってみえる。
 眠れない原因は、おそらくこの剣だ。自分が旗頭になるということへの不安だ。
 この世界から元の世界に戻る方法を探すためとはいえ、正しいことのためとはいえ、どうしても気後れが生じるのは十六歳の少女には当然のことだ。
 そんなことを考えながら、結局、優桜は眠ったんだか眠らなかったのかわからない状態で朝を迎えた。今日は食堂の仕事は休みだ。元々は出勤だったのだが、どうもウッドが後ろから手を回したらしい。
「おはよー、ユーサ」
 メリールウは睡眠も充分なようで、今日もいつもと同じに元気だった。朝ご飯はトーストがひとりに一枚で、その上にハムが乗っていて、コンソメのスープがあり、さらには四分の一に切られた果物がついていて優桜をびっくりさせた。
「やだなー、ユーサ、ご飯のお金入れてくれたでしょ?」
 ちょっと張り切ってみたんだよと、メリールウはそう言って笑った。
 それなのに、その久しぶりの豪華な朝食の味を優桜はろくにわからないまま飲み下した。初めての剣道の大会の前に、これと似た思いをしたことがある。あの時も緊張して朝ご飯はろくろく喉を通らず、そのせいで集中力が切れて一回戦負けした。
『ご飯を食べないと力が出ない、って本当なのね。次はお母さんも優ちゃんの食べやすいメニュー、がんばるわ』
『ユウが強いのは僕たちみんな知ってるから、大丈夫だよ』
 母と明水がそんな風に励ましてくれたのを、ふと思い出して優桜は首を振った。
 母は間違っていたのだ。悪い人なのだ。それなのに、なんでこんなにも甘く思い出してしまうのか。
「ユーサ?」
 様子がおかしいことに気づいたのだろう。気づくとメリールウが心配そうに優桜を覗きこんでいた。
「ユーサ、心配?」
 少しためらってから、優桜は頷いた。
「だいじょぶよ」
 メリールウがのびやかに笑う。
「あたしも一緒。ウッドもいっしょ。サリクスもいっしょ」
「……サリクスも?」
 意外な名前に、優桜は驚いた声を出した。
「ん。サリクスは用心棒だから強い強い。いざとなったら、あたしも歌うから、だいじょぶ」
 歌が何の関係があるか聞いてみたかったのだが、出かける時間が迫っていた。優桜は最後に残っていた果物を飲みこむと、メリールウと一緒に部屋を出て事務所に向かった。

*****

 事務所のドアのところまで来ると、ドアは半開きで中から人の話し声がした。
「本当に、本当にありがとうございました。引っ越しを手伝って頂いたばかりか、新しい仕事まで斡旋して頂いて」
「いえ、大変なのはまだこれからですよ」
 一人はウッドだった。もうひとりは女性のようだ。声を聞いたことがあるような、ないような。入っていいかわからずに、優桜はメリールウと一緒に僅かにドアに寄り、中を伺った。
 事務所ではウッドが来客対応をしていた。上下のスーツを着て、髪をちゃんとまとめた中年らしき女性。子供と思われる小さな男の子の手をひいていた。男の子は頭に包帯を巻いていたが、母にひかれた手と逆の手に車のおもちゃを持っていて、元気である様子だった。
「はい。でも本当に助かりました。グリーンさんに間に入って頂かなかったら、私も、この子もきっと今ここにいなかったと思います」
「オレはたいしたことはしていませんよ。貴方がお子さんを守ろうと頑張られたからです」
「そんな。ご恩は決して忘れません」
 その時、ウッドが優桜たちに気づいた。彼はすまなそうに、次の来客の時間が迫っているのでと女性に告げた。女性がはっとしたように背筋を伸ばし、もう一度頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「ありがとございました」
 男の子も神妙に頭を下げた。メリールウと優桜はドアの前から離れた。ほどなくして出てきた女性の顔に大きな痣があるのをみて、優桜はこの女性がこの前、慌てた様子で事務所を訪れた人物だと気づいた。あの時とは別人のようにきっちりとした姿で、何より落ち着いている。彼女は微笑んで優桜とメリールウに会釈すると、子供の手をひき、階段を降りていった。
「今の人……」
「優桜はこの前会ったよな。旦那さんからの暴力でたいへんだったんだ」
 ドメスティック・バイオレンスというものだろうか。異世界にもあるということが、優桜は不思議だった。
「ウッドが仲裁したの?」
「一応したけど、聞く耳持ってりゃここまでこじれんからなあ」
 ウッドの声が吐息混じりになる。女性の顔に痣があったことを優桜は思い出した。
「だから、避難場所と仕事の提供。たいしたことはしてない」
 ウッドはそう言うと束ねていた髪をほどき、大きく背伸びをした。
「それだけでも充分たいしたことだと思うけど」
「やっぱりウッドは凄いね!」
 メリールウが無邪気に笑う。
 ウッドは、正しいことをやっている。だから、エレフセリアも正しいのだ。暴力的な方法だけど、これは正しいことなのだ。優桜はそう思いこんで、自分の中の不安をぎゅうぎゅうと押さえ付けた。
 気後れしたら、負けだ。剣道の試合と同じ。
「オレ、着替えてくるわ。サリクスが来たら呼んで」
 ウッドは言うと、部屋のロッカーがある方に引っこんでしまった。優桜はきょろきょろと事務所を見回す。平日のはずだが、普段いる事務員の姿もなかった。
 ウッドが着替え終わるより早く、サリクスが姿を見せた。相変わらずの軟派なスーツ姿だったが、ネックレスはつけていなくて、アクセサリーは指輪だけがそのままだった。日の光の下で見て改めて、優桜は彼の髪が金褐色なのだとわかった。緑色の目を間近で見たのは、優桜ははじめてだった。それは西部という地方出身者の色だということが、今の優桜にはわかっていた。ガイアは、外見で出身地方を大別出来る。
「ハーイ。みんなの頼れるサリクス君の登場でーす」
 開口一番、サリクスはそう言っておどけた。
「サリクス。おっはよー」
「おはよう、ルー。今日もいちだんと可愛いねぇ」
 褒められて、メリールウがステップを踏んではしゃぐ。
「ありがとー。サリクスもカッコイイよ」
「俺はいつだって格好いいのさ。ルーがいつも可愛いのとおんなじに」
「だめだよサリクス。あたしは綺麗な時だってあるんだよー」
 どんどんずれていく会話に、優桜は肩を落とした。大丈夫なのか、この二人。
「ごめんごめんユーサ。ユーサもかわいい。この仕事終わったらデートしような」
「……しません」
 さっき入れ直した気合いを瞬く間に吸い取られ、優桜は肩を落とす。その肩をメリールウが両手で叩いた。
「肩の力は抜けてるくらいがちょうどいいよ。後でいっぱい入れられるから」
「揃ったか?」
 その時、ウッドが戻ってきた。彼は先ほどのスーツから私服に着替えていた。髪も解いたままだ。
「あれ、ウッドその格好でいいの?」
 相手を説得するのならスーツ姿の方が信用してもらえそうなものだが。優桜のその疑問を、ウッドはあっさり一蹴した。
「打倒政府に力貸してもらおうとしてんだから、形式的なスーツのがヘンなの」
 そういうものなのだろうか。優桜にはわからない異世界的な計算が働いているのだろうか。
 ボスのお出ましだと、サリクスが口笛を鳴らす。
「サリクス、来たか」
「おう。面白いことがあるってルーに聞いたから」
 サリクスはへらりと笑顔を覗かせると、ウッドに向かって軽く頭を下げた。
「今日も楽しませてくれよ」
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