桜の雨が降る 2部2章2
「いやっ! いやあっ!」
「落ち着いて」
「お願い、こんなの見せないで!」
「"姫君"、落ち着いてくれ!」
髪を振り乱して泣き叫ぶ彼女を、騎士は自分の腕の中に抱き込む。自分の腕に簡単に入ってしまう小さくか細い身体は、今はいとしさより悲しさが先に立つ。
自分を呼ぶ声は細く、いつもは綺麗に澄んだ茶色の瞳は、今はどんよりと濁って焦点が合っていない。
「"姫君"」
騎士はこつりと、彼女の額に自分の額を重ねた。ぎゅっと目を閉じる。
なぜ、彼女がこんなに壊されなければならないのか。自分は、どんな裁きでも受ける。でも、彼女がこれほどの罰を受けるほどの悪いことを、一体いつしたというのか。
乱調の理由はわかっている。エレフセリアだ。姫君を壊した奴がついに動き出したのだ。
彼らは、平和を騙って世界を壊そうとしている。だから、姫君は怯えて泣き叫ぶのだ。彼女の瞳に映るのは目の前にいる恋人ではなく、破壊されたあとの地獄の世界だから。
その凄惨な光景を、姫君は見せられ続けている。もう見たくないと目を閉じ耳を塞いでも、頭の中に直接流し込まれる。
それは、どんなに辛いことだろうか。察するにあまりあるが、それでも騎士は姫君の辛さの全てはわかれない。騎士にはその光景は見えないからだ。見えればどんなによかっただろうか。それは地獄に間違いないが、それでも、彼女と痛みを分かち合える。
もう一度姫君を呼び、騎士は彼女の華奢な手を握った。
「おれが、絶対に奴らを止めてやる。止めてやるから」
だから、泣かないでくれ。大丈夫だ。
あの日の誓いは、絶対に守る。
自分をどん底から救ってくれた姫君を、決して不幸にはしない――。
舌足らずな声と共に、頬に手を当てられて我に返る。いつの間にか、姫君はまた子供に戻っていた。名前を呼ぶと、あの日のように無邪気に笑う。
騎士はそのまま、姫君を自分の腕に抱いていた。髪や頬、そして異形の形をした耳に、彼女のしっとりとした手が這うにまかせる。やがて、その行為に飽きた姫君が眠そうに目をこすりだしたので、騎士は彼女をベッドに寝かせた。姫君はしばらく騎士の手を離さなかったのだが、やがて眠ってしまった。後れ毛のかかる額に唇を落として、騎士は姫君の眠りが穏やかであることを祈り、部屋を出た。
廊下では、ツェルが待っていた。姫君の取り乱しぶりがひどかったので、席を外してもらっていたのだ。
「大丈夫なの?」
ツェルの声が悲しげに響く。彼女もまた、自分と同じくらいに姫君が壊れてしまったことが悲しいのだと騎士は思った。だから、ずっと廊下で姫君を案じていたのだろう。姫君との付き合いがいちばん長いのは、彼女なのだから。
大丈夫だと短く返して、騎士はツェルを覗きこんだ。
「お前こそ大丈夫なのか」
心優しい彼女だからこそ、やはり荒事に巻き込むのはつらい。できれば、遠ざけたい。それはツェルに限ったことではなく、オボアも、ラーリも、ファゴも、フリュトも他のみんなもだ。こんな思いをするのは自分だけでたくさんだ。
ツェルははっきりと、首を縦に振った。後ろで束ねた茶色の長い髪が遅れて揺れる。
「巻き込んでって、言ったでしょ」
先ほどと全く違う、しっかりした声だった。覚悟を決めた声だった。
「でも、あたしはそんなに戦えないけどね」
一応、父さんの引き出しから持ってきたけどと、ツェルは握っていた右手を開いた。そこには赤い石のついたピアスが片方乗っていた。
「だいじょぶさ。戦う方はオレがさくさくさくーっとふっ飛ばすから」
廊下の端から、オボアが顔を見せた。彼もまたその手にパワーストーンを握っていた。緑色の原石だ。
「"オボア"」
「さっさとやっちまおうぜ。オレはエレフセリア云々より、これ持ち出したのが母ちゃんにバレた時のが怖い」
そう言ってひょいと肩をすくめたオボアの姿に、思わず騎士も、ツェルも頬を緩ませた。
「"フリュト"から情報届いたよっ」
その時、オボアの後ろから声がした。
そこにいたのは小柄な少女だった。気性の強さを現わすように口元をぐっと閉じていたが、調った造作と綺麗な金髪、瑞々しい碧色の瞳は、騎士とそっくりだった。彼女は騎士の姿を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「"コルノ"」
呼ばれた名前に一瞬不思議そうな顔をして、それが自分の偽名だと気づくと、コルノはまた愛らしい笑みを浮かべた。
「"騎士"おにいちゃん」
側にいた少女の頭を、騎士はいつもするように撫でてやった。
「おにいちゃん、って何かヘンじゃね?」
せっかく身元露見の防止にコードネーム考えたのにと言って、オボアが腕を組む。
「コードネームなんか考える"オボア"の方がヘンよ」
コルノにずばりと言われ、オボアは明らかにむっとなった。
「あのなあ、オレはこれでも真剣に」
「"コルノ"を相手にむきにならないの」
「"コルノ"。"オボア"とけんかするんじゃない」
ツェルがオボアを、騎士がコルノをなだめる。
「"フリュト"から届いたって?」
うんと頷くと、コルノは手にしていた紙片を騎士に差し出した。
「古い端末に入ってたの。端末からは消して、メモしなさいって」
騎士はかがむと、コルノの高さに目線を合わせた。
「それじゃ、頼んでいいんだな?」
コルノは笑顔で頷いた。
「でも、"騎士"おにいちゃんのためにするんだよ。"姫君"のためなんかじゃないからね!」
「まだ言ってるの?」
ツェルと、オボアにも苦笑いされ、コルノはふくれっ面になる。
「だって、おにいちゃんはいつも"姫君""姫君"って」
「……今はそんな場合じゃない」
騎士は何とかそう言うと、コルノの肩に手を置いた。
「頼むぞ」
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