桜の雨が降る 2部1章8
知らない人からフルネームで呼ばれ、優桜は文字通り椅子から飛び上がった。その様子に男性が楽しげに笑う。
「かーわーいー。そんなにビビんなくってだいじょぶだぜ? 俺、ウッドと違って紳士だから」
「……ウッドを知ってるんですか?」
「あー楽しかったー。ユーサ、気分よくなった?」
その時、ダンスフロアからメリールウが帰ってきた。男性がぱっと笑顔になる。
「ルー!」
彼は凄い勢いで席を立つと、メリールウに両腕を広げて抱きついた。メリールウも嫌がるでもなく、ぱっと笑顔になる。
「サリクス! ひっさしぶりー」
言って彼女は、サリクスと呼んだ男性の頬にキスを落とした。
「相変わらず上手いモンだよなー。ルー、今夜は俺の部屋で踊らない?」
「それはだーめ」
メリールウは子供のように下瞼をひっぱり、べえっと舌を突き出した。そんな彼女の頭をサリクスがぽふぽふと撫でる。
「じゃあ今日ここで俺と踊ってよ。もうすぐペアタイムだし、ユーサは踊れなさそうだし」
「ん、いいよ! 踊ろ踊ろ」
メリールウが笑顔になる。
優桜はこっそり二人を見比べた。サリクスという名前は、そういえば何度か聞いたことがあるように思う。この男性がサリクスなのだろう。それならウッドを知っていた理由も、優桜の名前を知っていた理由も納得がいく。メリールウより少し年上のようだが、知り合いなのだろうか。友人……恋人?
ぐるぐると疑問符を回転させている優桜に気づいたのか、メリールウが両手を打ち合わせた。
「いっけない。紹介してなかった。ユーサ、この人サリクスっていうの」
サリクスはひょいと片手をあげた。
「サリクス=フォートだよ。ルーの恋人」
やっぱりと、優桜は頬を赤らめたが、メリールウは即座に否定した。
「違う違うー! ルーって呼ばなくなったら考えてもいいけど、さっきからずっとルーって呼んでるからだめ」
「なんでだよ。可愛い愛称で最大級の愛情を表現してるんだぜ?」
「間違った名前はヤなんですーだ」
メリールウはぷいっとそっぽを向いた。
その理屈が、優桜には不思議だった。
メリールウという名前はちょっと長いから、サリクスは最後の「ルウ」の部分からルーと愛称で呼んでいるのだろう。別に間違っていないではないか。
「メリールウだってあたしのこと『ユーサ』って呼ぶのに」
優桜の名前の発音は「ゆうさ」が正解であり、伸ばす音にはならない。メリールウは伸ばして呼んでいる。アクセントの置き方も微妙にずれていて、そのため「ユーサ」と聞こえる。間違っているのだ。
「え、ユーサはちゃんとユーサだよ」
一瞬でそう返され、優桜は二の句がつげなくなってしまった。
メリールウはつくづく不思議で、そしてちょっと困った人だ。
話を聞いていくと、サリクスは繁華街にある「シノの花園」という店の用心棒なのだという。その店はどうも話を聞いている限り、優桜の年齢には宜しくない店らしい。サリクスはそこで女性の店員を送っていったり、他の店との揉め事に関わったり、客引きを手伝ったり店の裏で店員の相談に乗ったり……と、そんなことをしているようだ。
「用心棒っつーといちばん聞こえがいいからそう名乗ってんだ」
「客引きやってるのがほとんどだよねー」
メリールウがけらけら笑う。彼女は先ほどのカルタスを既に三杯空け、すっかりご機嫌だった。サリクスの方は何か別の、優桜から見るとビールのような泡立つ液体の入ったグラスをこれも大量に片付けていた。カラになるたびにメリールウがついでいるから、煙草のにおいも手伝ってドラマでしか見たことのない、場末のバーのように思える。
「これでも俺、結構、顔の効く奴なんだぜ? ま、いーんだけどな。客引きしてるほうがカワイイ子見る機会も多いし」
サリクスがにやりと笑う。
「ユーサ、気をつけるんだよ。サリクスは女の子見るとすぐ声かけるんだから」
「えー? 俺こんなにもルーに愛情注いでんのに?」
抱きついてきたサリクスを素早くかわして、メリールウは唇を尖らせた。
「だーめ。他の子にも同じ事言ってるんでしょ」
「ちぇっ」
サリクスが舌打ちして優桜に視線を移す。
「あ、よく見たらユーサもなかなかカワイイじゃん。カワイイっつーか、キレイ? どう? 明日辺りデートしない?」
「……お断りします」
優桜は引き気味に、しかしはっきりと告げた。何がどうなっても、こんな遊び人と優桜がデートするなんてありえない。自分の理想は魚崎明水なんだから。
メリールウのことは薄々と、考えるのが苦手な人だとは思っていた。しかし、今日の状態を見て本当は何も考えていないんじゃないかと思うようになってしまった。やっと入ったお給料を平然と無駄遣いして、サリクスのような、こんな軽薄な相手と付き合っているだなんて。
「あたし、そろそろ帰る……」
時計がないので、時間がどれだけ経ったかはわからない。けれど、ここにいても疲れるだけだ。明日だって仕事はしっかりあるわけだし。
「え? 今日オールナイトのダンスだよ?」
「ごめん。踊るの好きじゃないから」
優桜は席を立ち上がった。
メリールウはひきとめたそうな素振りを見せていたが、優桜が帰りたいと思っているのがわかったのか、鍵はかけて先に寝て大丈夫だというようなことを言った。
「失礼します」
「気をつけろよ。今度はゆっくり遊ぼうぜ」
あまりにお気楽なサリクスの声に、優桜は内心でお断りだと返して店の出口へと向かった。あまりに早い退場にびっくりしている入り口の店員にバンドを切って貰って、外に出た。
先ほどから時間が経ってしまっているせいで、すでに日が傾きはじめていた。ここは昼でも女の子一人でいるには宜しくない繁華街である。
優桜は泣き出しそうになった。
「明水兄ちゃん……」
いちばん頼れる人の名前を呼んだところで、弱気に傾きかけていた気持ちに活が入った。こんなところでめそめそするようでは、いつまで経っても明水兄ちゃんの隣を歩けるようになるわけがない。
優桜はポケットの生徒手帳をぐっと握りしめ、できる限り早足でビルまで帰った。食堂の看板が見えたとき、優桜は本当の自宅に帰ったかのように安堵してしまった。
実際にこんな状況になった時に明水に連絡がついたらどうなるか、ちょっと考えてみた。多分、決してそこから動くなと言って、大急ぎで迎えに来てくれるのだろう。そして、優桜の手を引いて連れ帰ってくれるのだろう。「勝手にこんなところに行っちゃ駄目ですよ」と言って。
それは嬉しい想像であり、同時にいつまでも子供扱いされてしまう自分が悲しい想像でもあった。
早く大人になりたい。明水兄ちゃんの隣を歩ける大人に。でも、メリールウやサリクスのような大人になるのは絶対ごめんだ。
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