桜の雨が降る 2部1章7

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 今日も食堂は盛況だった。
 優桜もだいぶ仕事に慣れ、洗い終わったお皿を積むケースの位置も間違えなくなった。今日はメリールウにもトラブルはなく、彼女もまた食器を一心に洗っている。
 食堂のお昼の営業時間が終わり、賄いのご飯を食べた後で、経理を担当している青年のクラウスから、優桜は茶封筒をもらった。
「はい、今週のお給料だよ」
 優桜はぱっと表情を輝かせた。
「ありがとうございます!」
 封筒を後で返すように言うと、クラウスは次の人のところへと去っていった。優桜は人目もはばからずその場で明細と金額を確認する。少しかかったが、間違いなく今週働いた分の給料が全額入っていた。
 飛び跳ねんばかりの勢いで優桜はロッカールームにとって返す。自分が働いた分のお金が手に入るのがこんなにも嬉しいことだとは知らなかった。もちろん喜んでばかりもいられず、このお金の大半は今までの食費の支払いや、生活に必要な日用品の購入に消える。しかし、それでも半日分くらいの金額は手元に残るのだ。
 優桜はそのお金で食事をしようと思っていた。図書館まで歩く道に、美味しそうなパスタとパフェのお店があるのだ。いつもは横目で通り過ぎていた。でも、あまり満足に食べられていなかった優桜は通るたび食べたくて仕方なくて、ショーウィンドーをずっと眺めていたこともある。お給料をもらったら食べたいメニューももう決まっていた。
 優桜はうきうきとエプロンから着替え、出かけようとした。その時ひょいっと、メリールウがロッカー室の入り口から顔を覗かせた。
「ユーサ、みーつけた!」
 食堂にいるときは髪を結び、化粧も地味に控えているメリールウが、今はもういつもの派手な彼女に戻っていた。メリールウは優桜の手を取ると、ぐいぐい引っ張って外に連れ出した。
「えっ、メリールウ? どこ行くの?!」
「とっても面白いとこ!」
「あたし、今から行きたいとこあるんだけど」
 優桜の抗議を鼻歌でかき消し、メリールウは路地を曲がってどんどんと歩いて行った。優桜が普段入らないようにしている通りだ。進むたび、まだこうこうと日が照っている時間のはずなのにどんどん薄暗くなり、赤や黄色の派手なネオンが目立ちはじめる。
「メリールウ、ここって繁華街なんじゃ」
 優桜はウッドから、繁華街には女の子は昼間でも入らない方がいいと言われている。
「そう。繁華街!」
 メリールウは優桜を振り向くと、両手を広げた。
「地上の天国。とってもとっても楽しいところ」
「そうじゃなくって!」
「怪しいお店に入らなければだいじょぶよー。帰りは誰かに送ってもらえばいいし」
 果たしてそういう問題なのだろうか。しかし今からメリールウを振り切って帰ろうにも、だいぶ奥まで進んできてしまった。一人で戻るには怖すぎる。特に今、優桜は全財産の入った茶封筒をポケットに入れているのだ。
 優桜が足をつっぱっても、メリールウは一切遠慮せず引きずっていく。またしばらく角を曲がったところで、彼女はようやく足を止めた。
 そこは木造のくたびれた感じの建物で、優桜が根気よく看板を読んでみると居酒屋のようだった。昼間なので、当然ながら開店していない。
「メリールウ?」
「こっちこっちー」
 メリールウはスキップしながら居酒屋と隣の同じような店の境目にあった、黒くぽっかり開いた入り口へと優桜を手招きした。
 優桜が近づいてみると、この店にはどうやら地下があるらしく、入り口の下はコンクリートが剥き出しになった階段になっていた。表の看板は蛍光ピンクと蛍光イエローが点滅を繰り返すおそろしく派手で読みにくいもので、しばらくかかって優桜が判別したところ、ディスコクラブと書いてあるようだった。
「……ディスコ?!」
 優桜の声が裏返る。学校に部活に忙しい優等生だった優桜には、当然のことながら一切縁がなかった場所だ。当たり前だがこのような施設に入ることは校則で禁止されているし、優桜の父親が知ったら真っ青になって止めることは間違いない。そもそも優桜本人に全く興味がない。
「今日はダンスのオールナイトなんだよ」
 優桜の顔色を知ってか知らずか、メリールウは楽しげに笑う。
「せっかくのお給料日なんだから、ハジけなくっちゃソンソン! 行くよ、ユーサ!」
「ちょっ」
 抵抗することもできずに優桜は再びメリールウに引きずられて地下への階段を降りていく。半分ほど降りたところで、ひどく賑やかで耳障りな音楽が漏れ聞こえてきた。若者の歓声も混じっている。メリールウがやたらと重そうな扉を開けると、音楽は三倍のボリュームになって優桜の鼓膜を刺激した。店内は薄暗い。目が慣れてみると、正面のところに分厚い遮光カーテンがかかっているのがわかった。
 そのカーテンの前のパイプ椅子に、ほとんど金に見えるような茶色の髪にパーマをかけた、そばかすだらけの顔の少年が、退屈そうに座っていた。メリールウが声をかけると、返事をするわけでも特に表情が変わるわけでもなく、ただ手を差し出した。メリールウはその手に札と何枚かのコインを握らせる。
 少年はそのお金を、無造作にかけていたエプロンのポケットに流し入れると、今度は優桜に向けて手を突き出した。
「えっと……お金、いるの?」
「あったりまえだよー。もーユーサってば」
 言いかけて、メリールウは優桜がガイアの常識に疎いことを思い出したらしい、ぱっと口を手で塞いでから、彼女はもごもごと金額を言った。
「フロアの使用量が二十エオー、オールナイト料金が七エオー、音楽代が五エオードリンク代が十エオー四十フェオ、飲み放題をつけて十エオーだから、合計は……」
 目をぐるぐるさせはじめたメリールウに、少年がぼそりと合計の金額を告げた。
「一エオロー二エオー四十フェオ」
「ええっ?!」
 優桜は思わず大声を出してしまい、慌てて口をふさいだ。実際にはホールで流れている音楽のおかげで、周囲にはほとんど聞こえていなかったのだが。
 この金額は優桜の一日の給与を余裕で上回るものだ。メリールウだって同じはず。
「メリールウ……?」
「早く払った払った! 人いっぱいになって踊れなくなっちゃうよ? あ、もしかして薄暗いからお金の種類わかんない?」
 メリールウは優桜に近寄ってくると、優桜のポケットから覗いていた茶封筒を抜き取り、中からお金を取り出すと一瞬の未練もなくさっさと少年に払ってしまった。少年はお金をエプロンのポケットに収め、同じところから蛍光グリーンのバンドを引っ張り出すと、メリールウと優桜の手首に通した。
「よーし、ゴーゴー!」
 メリールウがご機嫌で優桜の手をつかみ、もう一方の手で遮光カーテンをはねあげる。手首につけられた腕輪がじゃりんと音をたてた。お金を払って引き返すわけにも行かず、優桜もおずおずと後をついていく。
 カーテンの奥には小体育館ほどの空間が広がっていた。天井の中央には一面にびっしりと小さな鏡が取り付けられた球がはめられており、そこから細かな光が部屋中に反射している。学校の文化祭の演劇でしか使わないような赤や緑や黄色の光が飛び交い、その合間を大音量の音楽が埋めている。そのエイトビートの音楽に合わせて、男女が狂ったように手や頭を動かし踊っていた。どの人もメリールウに勝るとも劣らない派手で露出の高い衣服を身につけている。
 これがいわゆるディスコというものなのだろうか。眩しい光と、音と、そこらじゅうから漂ってくる煙草の煙で優桜はくらくらした。
「ユーサ? だいじょぶ?」
 メリールウは優桜の様子に気づいたようだった。
「先に座ろっか」
 言うと、彼女はダンスフロアをぐるりと取り巻くように置かれている椅子のひとつに優桜を連れて行った。小さな丸い卓に椅子がふたつ。
 メリールウは優桜を椅子の片方に座らせると、自分は反対側に歩いて行った。少しして帰ってきたメリールウは、両手に細身のグラスを持っていた。
「はい。これ飲んで」
 グラスの中を満たしているのは透き通った液体。水だと思って口にした優桜は、数秒後に盛大にむせ返した。
「ユーサ!」
「こっ、これなんかヘンなんだけど」
 最初はジュースのように甘い。しかし、あとから喉を焼くような強烈な感覚があるのだ。
「えー? それ、カルタスだよ?」
「カルタスってなに?」
 初めて聞く言葉だ。
「カルタスは、南部のカルタの実のジュースを割って作ったお酒」
「お酒?!」
「さっぱりして美味しいでしょ?」
 すっきりした? とメリールウは悪意のない笑顔を見せる。
「お、お酒なんか飲んじゃダメでしょ!」
 思わず叫んだ優桜に、メリールウは不思議そうに小首を傾げた。
「何言ってるのユーサ。ガイアは十三歳で成人するのよ?」
 優桜の世界では飲酒も喫煙も二十歳になってからだ。そう反論したかったのだが、もうそんな気力がない。
 余計に気分が悪くなったような気がして、優桜は頭を抑えた。元々物凄く健全な生活をしている娘なので、暗い場所、煙草やお酒は肉体的にも精神的にも堪えるのだ。
「踊りに行こうよ? あたし、お給料日はここで踊ってストレス発散することにしてるの。どんな嫌なこともお給料もらって踊ったら、忘れられる」
「それじゃ、メリールウだけ踊ってきて……あたし、もうちょっと休ませて」
 優桜はうなだれた。
「踊ったらすっきりするよー?」
「しないから」
 首を振って頭を抑えた優桜に、メリールウはそれ以上言わずにダンスフロアに降りていった。優桜はそれをぼんやりと見送る。
 さっきより喉が乾いて、優桜は水を飲みたいと思った。机の上に卓上用のメニューがあったので、重い頭をなんとかこらえてそれを見てみる。それによると何種類かのお酒が先ほど最初に支払った金額で飲み放題になるようだったが、驚いたことに水やジュースは有料だった。お腹が空いたので何か食べられるものはないかと探したのだが、小さなピザだけでフロア料金と同じ値段だった。
 薄暗い中でここまで読むのにだいぶかかった。余計に頭が重くなり、優桜はげんなりしてメニューを卓の端まで押しやった。
 とんだ出費をしてしまった。メリールウは自分が楽しくて来ているのだろうが、こういう場所に全く興味のない優桜には痛すぎる出費だった。次のお給料日までパスタもパフェもお預けだ。そう思うとなおさらお腹が空いてくる。
 フロアに視線を彷徨わせると、相変わらず派手な格好をした男女が思い思いに手足をばたつかせ踊っていた。その動きは稚拙でバラバラで、優桜には全然綺麗だとは思えなかったのだが、ひとりだけそう思わない踊り手がいた。
 手足をばたつかせるのではなく、曲に合わせた絶妙のタイミングで曲げ伸ばしをする。膝を曲げて溜めたかと思えばその姿態は軽く空に舞い、着地すればまた曲に乗って全身がしなやかに流れる。
 あれは誰なんだろう。薄暗くってあんまりよく見えない。
 優桜がしばらくその踊り手を目で追っていると、ぱっとミラーボールが光り踊り手の褐色の肌を浮かび上がらせた。褐色の肌と曲に合わせて揺れる、ウェーブのかかった赤い色の髪。メリールウだ。
「メリールウ」
 彼女は楽しくて仕方ないといった表情で踊っていた。笑顔で曲に乗り、流れるような動きを見せる彼女は、この場にいちばんぴったりの人間だった。洗い場でやいやい言われながら食器を洗っている姿より、こっちのほうがずっとずっと似合っている。
「メリールウ、すごい。いちばん上手」
「だよねー。俺もそう思う。ルーは最高だよな!」
 突然横から声をかけられ、優桜はびっくりして振り返った。いつの間にか、優桜の隣の卓に男性がひとり座っていた。薄い色のスーツに、色のついたシャツの襟元を思い切りくつろげ、首にチェーンのネックレスを巻き、幅広の指輪をつけていた。薄暗いせいで微妙にわからないが、ウッドと同じ金髪だろう。前髪を斜めにおろし、どこかツンツンした印象だが、それでいて綺麗におさまった短髪の男性だった。洒落た印象に反するとすれば、ズボンの右側に革製のケースをさげていることか。その男性が優桜ににこにこ人なつっこく笑いかけているのだ。
「あ、あの……?」
 当然ながら、優桜にこんな知り合いはいない。
「あんた、ユーサ・ウオザキだろ?」
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