桜の雨が降る 2部1章6

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 姫君が、あどけない笑顔でツェルの名を呼ぶ。
「どうしたの?」
「おにんぎょうをしらない?」
 姫君は幼い子がするように、両手をツェルに差し出した。
「姫君のおにんぎょう。ママがつくってくれたおようふくの」
 しろくてね、ふりふりいっぱいついてるの。姫君はそう言って無邪気に笑う。
 ツェルは内心で吐息をもらした。そのドレスなら知っている。ウェディングドレスのように白いレースがたくさんついた、ツェルの友人なら誰でも知っている人気の着せ替え人形シリーズのためのドレス。姫君の母親が娘のためにと手縫いで作ったそれが、幼いツェルにはとても羨ましかったものだ。ツェルの母親には生憎、人形のドレスを縫えるほどの裁縫の腕と余裕がなかったのだ。ツェルの下に男の子を二人抱えていれば仕方ない。しかも双子ときた。
 今の姫君は、本当に子供の頃のままだ。あの頃から彼女は、無邪気なお姫様だった。子供だからこそ、今ここで否定してしまっては、既に破損している姫君の心がさらに壊れてしまう。でもここに人形はない。おそらく、彼女の実家のカラーボックスの中だ。
「姫君のお人形は、ちょっとおでかけしてるんだよ」
 ツェルは笑顔を作ると、姫君の手に自分の手を重ねた。
「おでかけ?」
 ツェルの笑顔が伝わったかのように、姫君も笑顔になる。
「パパとママと、お洋服を買いに行ったのよ。戻ってきたらきっと新しいお洋服を着ているわ」
「わたしもおでかけいきたい!」
「それじゃ、ねんねしましょっか? 目が覚めたらお出かけに行けますからね」
「はーい」
 子供そのままの返事をして、姫君はツェルに伴われてベッドにむかい、間もなく眠ってしまった。あどけない寝息が聞こえてくると、ドアのところにいたファゴがベッドに歩み寄った。
「ミ……じゃなくてファゴ」
「自分がつけた名前を間違うかなあ。”オボア”」
 ファゴがおだやかな調子を僅かに怖くして、自分の後ろに来ていたオボアを見る。
「仕方ないさ。そっちのが呼び慣れてんだし」
 オボアはプラチナブロンドの頭をかいた。
「”ツェル”、大丈夫?」
 ファゴがツェルを呼んだので、ツェルは頷いた。
「うん。だいぶ慣れたから」
 自分を気遣ってくれた幼馴染の青い双眸に、ツェルは頷いた。
「姫君、壊れてしまってる」
 ファゴが眠っている姫君の手を取り、自分の額に当てる。
「何か見えるか?」
 オボアに寄り添われ、しばらくファゴは姫君の手を握っていたのだが、ほどなくして手を離し、首を振った。
「なんにも見えないの」
 黒髪が奔流になって、ファゴの顔の横で撥ねる。
「心の中が崩れて、がたがたになってしまっている。こんなに壊れてしまった心は見たことがない。姫君が可哀想」
 ファゴの青い瞳に涙がにじむ。顔を覆った幼馴染の肩を、ツェルはなだめるようにとんとんと叩いた。ツェル自身も涙をこらえながら。
「お前でも見えないのか」
 オボアもまた表情を曇らせる。
 それまで部屋の隅でじっとしていた騎士が、姫君のベッドに歩み寄った。眠り続ける恋人の顔を見つめる。
 その顔は、騎士が初めて会ったあの頃のようにあどけなく愛らしい。あんなに幸せだった少女が、なぜこんな目に遭わされなければならないのか。
『最近、なんだか怖い夢ばっかり見るの。どうしちゃったんだろうね?』
 そんなふうに彼女が訴えても、夢のことなんだからそんな時もあるさと、一緒に考えてやることすらしなかった自分の浅はかさが悔しかった。
 崩壊する前、彼女は手帳に夢の内容をメモしていた。どんどん字が乱れていくその手帳から読み取れたのは、世界の崩落を企む集団が活動をしていることと、姫君の異常はその集団の人間に原因があること。その集団の名前――“エレフセリア“。
 その集団を調べることは、情報収集能力に長けたフリュトとラーリに頼んだ。オボアも、ツェルも、ファゴも協力してくれている。巻きこみたくはなかった小さな妹も。
 姫君のことは、必ず自分が助けてみせる。例えどんな手段を使ったとしても。
 騎士は姫君のあどけない寝顔にそう誓った。
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