桜の雨が降る 2部1章5
少ない食器を洗い、洗濯や掃除を終えても仕事がはじまるまでに少し時間があった。自宅でゆっくりするというメリールウと職場で合流する約束をして、優桜は部屋を出て階段を降りた。
メリールウの部屋は、ビルの四階にある。ガイア中央首都の街中にあるそのビルは、二階が法律事務所で一階に食堂がある。優桜たちが昼間働いているのはその食堂なので、通勤にはこれ以上ないほどに恵まれている。階段を降りるだけなのだから。
優桜が早く部屋を出たのは、調べ物をするためだった。
食堂を経営しているのはすぐ上の階にある法律事務所であり、そこに優桜にこの世界のことと、偽りの平和姫について教えた人物がいる。
「おはようございます」
挨拶しつつドアを開けると、窓際の机につっぷして眠っていた男性が体を起こした。きちんとしたワイシャツ姿に似合わない、乱れた鈍い金色の長髪の男性だ。
「優桜か。時間早すぎない?」
優桜に気づくと、男性はまだ眠そうな声で言った。言われて時計を確認すると、事務所が開くには三十分ほど時間がある。
「ウッド、ここで寝てたの?」
優桜の問いかけに、男性――ウッドは首を振ると、机の引き出しから紐を出してきて髪を束ねた。眉が憂鬱そうに寄っていた。
「寝てたな。夢見てた」
「夢?」
その言葉に今朝の夢を思い出し、優桜も気分が沈む。
「請求書が減らない夢」
「え?」
ウッドは遠くを見るようにして続けた。
「処理しても処理しても積んでいくんだよな。死ぬかと思ったぜ」
悪夢の種類も人それぞれだなと、優桜はそんなことを思った。
この男性――ウッド=グリーンはこの法律事務所と、一階の食堂の経営者だ。二十八歳と優桜の感覚ではかなり若いのだが、メリールウに言わせると「もうトシ」とのことだった。
優桜が別の世界から来たことを知っていて、どこからその知識を得たのかは不明だが、ある程度は詳しいようである。
「優桜は今日は仕事か?」
問いかけられて、優桜ははいと頷いた。
「がんばれよ。今日は給料ちゃんと出してやれるから」
優桜たちが働く食堂ではとある騒動があり、給料が出ていなかった。生活がなんとか成り立っていたのはウッドが多少融通してくれたからであり、彼がいなかったら優桜もメリールウもとっくに路頭に迷っている。というより、実際に迷っていたメリールウに住居と職を提供したのは彼だという。
いい人なのかなと、優桜は思う。弁護士という堅い職業を選び、経営者でもあるのだからしっかりした人というのはわかるのだが。
「ウッド、端末借りてもいい?」
優桜は最初、この世界の文字の読み書きができずに苦労したのだが、ウッドが仕事の合間に見てくれたおかげで今は俗語や方言などの特徴的な言い回しをされなければ読みの方はかなりできるようになっていた。そのため、優桜は仕事の合間に「偽りの平和姫」の消息を探すことができるようになっていた。ただ、メリールウの部屋には端末がないため、昼間は少し行ったところにある図書館に行き、図書館が開いていない時間はウッドの事務所の端末を借りている。
「はじまるまでな」
「ありがとう」
許可を取ると、優桜は端末の電源を入れた。現代と少し勝手が違って、今でも慣れない。それに加えて、偽りの平和姫捜しは雲をつかむような話だった。第三の目を持つ魔女だとか、普段は学生で満月の夜にだけ活動していただとか、そんな噂がごろごろしているのだ。公に名前を出していたわけではない人を探すのは難しいと、つくづく思った。
「もう深川姓じゃないかもな」
冷蔵庫から出してきたパンを囓りながら、ウッドはそんなことを言う。
「どうして?」
「どこかでひっそり暮らしてるとして、いい年だからもう結婚してるんじゃないか? 結婚できてないとしても、汚点がついた家名を使い続けるとは思えないしな」
こうして検索範囲が広がってしまった。果たして絵麻という名前だけで探しきれるのだろうか。しかも、全く別の名前を使っている可能性が高い。
優桜がげんなりしたところで、乱暴にドアが開いた。
「グリーン法律事務所はここですか?!」
髪を振り乱した、中年太りの女性だった。顔に大きな痣がある。よほど焦っていたのか、皺だらけのティーシャツにアイロンのかけられたスーツのズボンを合わせている。そのくせ、靴はこれも汚れて履き古されたスニーカーだ。とるものもとりあえず、といった風情だった。
「あの……営業時間はまだで……」
思わずそう言った優桜に、女性はつかみかからんばかりに寄ってくると、ばんと音を立てて机に手をついた。
「助けてください……子供が、子供が……!」
語尾に嗚咽が重なる。
「あ、あの……その」
すっかり泡をくっている状態の優桜と泣き続ける女性を見て、ウッドは微かに息をつくと優桜に歩み寄った。そして無言で優桜を脇に押しやると、女性の肩に手を置いた。
「どうされました?」
ひどく落ち着いた声音だった。
「ぐ、グリーンって人なら助け、てくれるって」
しゃくりあげる女性に、ウッドはいつもより僅かに声をやわらげて告げた。
「ウッド=グリーンはオレです。どうしましたか?」
「ああ……」
女性は大きく息を吐いた。
「お願いします、どうか助けてください。子供が、あの子、まだ四歳なのに……」
「大丈夫ですよ。がんばりましょう……優桜。悪いけど外してくれるか」
女性にソファを勧めてから、ウッドは優桜に退室を促した。少しきょろきょろして、ここにいても何もできないとわかった優桜は促されるまま外に出て、扉を閉める。焦った心を静めようと、ひとつ深呼吸した。
ウッドには二つ肩書きがあり、ひとつは経営者、もうひとつが弁護士だ。もっとも、本人曰くよろずの相談事の方が圧倒的に多いらしく、こうした用件はよく飛びこんでくるという。その現場を見たのは優桜ははじめてだった。
あの女性は本当に困っているようだった。困って困って、どうしようもなくなってウッドを尋ねてきた、といった様子だった。
優桜も誰にも言えない悩みで困ったことがあるから、気持ちはわかる。あの時は本当に誰に言うこともできず、大好きで信頼している明水にさえ、ついに言わずじまいだった。そういえば、明水はそんな優桜のことをとても心配してくれていた。
「明水兄ちゃん、どうしているのかな」
無性に明水の穏やかな笑顔を思い出す。写真の中だけではなくて、本当の明水兄ちゃんに会いたい。階段を登りながら、優桜はそんなふうに思っていた。
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