桜の雨が降る 2部1章4
魚崎優桜はごくごく普通の女子高生だった。
朝は眠い目を擦りながら起き上がり、制服に袖を通して学校に通い、たまにあくびをかみ殺して授業を受け、お弁当を食べながらクラスメイトとはしゃぎ、部活で張り切り、同級生とおしゃべりに興じて、母のお手製の夕飯を頬張りつつその日あったことを両親に報告し、枕に頭をつければあっという間に眠ってしまう。そんな女の子。とある事件のせいで束縛と言っていいほど過保護になっている父親のことが唯一の悩みだった。
そんな単調だが幸福な日々が破られたのは、母が倒れたことがきっかけだった。過労から職場の階段で倒れた母は、意識不明の重態に陥った。そこまでなら誰にも起こりえる悲劇だったかも知れない。倒れた母は自身の妹の殺害という、とんでもない過去を連れてきた。
母親は、実の妹を殺めてしまったのだという。優桜にはそれが嘘なのか本当なのかすら判断ができなかった。生きていれば優桜の叔母にあたる母の妹が若くして亡くなっていることは知っている。けれど、それが狂気に取りつかれた母によって行われたことだったのか、それとも写真でしか知らない母の妹がどうしようもない人間で、やむなく母がその決断に至ったのかが優桜にはわからなかった。実は、わかりたいとも思っていない。どんな経緯があったって、それは人殺しだ。罰を受けなければならないはずなのに、母はのうのうと暮らしていた。
優桜は今、叔母を探している。それも、自分の全然知らない異世界で。
母親の病院からの帰り道、執拗に迫ってきた取材記者から逃げようとした優桜は、車道に飛び出し車に撥ねられてしまった。そして、気づくと異世界――ガイアのゴミ捨て場に倒れていた。車に撥ねられたはずなのに傷ひとつなく。
怪我がなかったのはいいことだ。しかしそんな状況で、いきなり自分の全く知らない世界に放り出されてしまえば誰だって混乱する。優桜は自分にわかるものを探して街をさまよったのだが、悪い人に売られそうになってしまった。メリールウが助けてくれなかったら、きっと売り飛ばされていただろう。
「ユーサ! 起きた?」
呼ばれて振り向くと、頭上三十センチくらいのところに逆さまになった褐色の顔が覗いていた。いつもより渦を巻いたイチゴ色の髪が左右に広がっている。
「メリールウ?!」
「オハヨー、ユーサ」
逆さまのままで褐色の顔がけらけら笑う。だいぶ慣れたとはいえ、起き抜けの身には結構不気味な光景だった。
「メリールウ……頭に血がのぼるよ?」
「あ、そっか!」
ひょいっと顔がひっこむ。少ししてロフトのはしご段を素足の少女が下りてきた。健康的な足も、さきほどの顔と同じで褐色だ。
彼女の名前はメリールウという。ガイアでかつて迫害された一族「放浪者(ワンダラー)」の血をひく娘で、一族の特徴である褐色の肌と見事な赤毛を受け継いでいる。そのため、彼女はとても目立つのだ。
外見はもちろんのことなのだが、行動も突飛で大人げなく、そういう悪い意味でも目立つ。例えば、さっきのようにロフトから顔を逆さまにして下にある、優桜の寝所を覗いたり。十八歳の娘がすることにしてはいささか子供じみている。
(こういうとこがなきゃ、普通にいい人なんだけどなあ)
ふとそんなことを思い、優桜は枕元にたたんであった着替えに手を伸ばした。着慣れた高校のセーラー服。今はもう着ていく必要はないのだが、優桜はこの世界で、できる限りセーラー服を着るようにしていた。それは今までと全く違う異世界で、優桜が自分を主張するような意味があるのかも知れない。ちゃんと学校の制服を着ているよ、私は本当はここに所属する人間なんだよ、と。
体を動かした拍子に、ポケットから生徒手帳が転がり落ちた。拾い上げてページを繰ると、優桜は楽しげに微笑んだ。
生徒手帳のいちばん最後のページに、一枚の写真が挟んである。夏に魚崎家で海に出かけた時に撮影した物で、白いティーシャツを着て満面の笑みを浮かべる優桜と、隣に優桜と同じティーシャツを着た従兄の明水が写っているものだ。明水は笑うと目尻が下がって、普段に増して優しげに見える。
この九歳年上の従兄に、優桜は憧れの真っ最中なのだ。明水は大人で、格好良い。同級生なんてみんな子供に見えてしまう。周囲に気配りができて、優桜が子供のように甘えても優しく受け止めてくれる理想のお兄ちゃん。優桜はいつか隣を並んで歩きたいと思っている。
(そのためにも、元の世界に帰らなくっちゃ)
拳を握り、優桜は気合いを入れる。
元の世界に戻るためには、まずはこの世界にいたと噂される「偽りの平和姫」(フォルステッド)――叔母の深川絵麻を探さなくては。
現代で母に殺された叔母は、どうやらこの異世界に迷いこんだらしい。そこで「平和姫」(ピーシーズ)と呼ばれる救世主となった彼女は、世界を乱していた不和姫(ディスコード)を退け英雄となった――はずだった。
しかし、世の中とはそうそう上手くはいかないらしい。時の脅威だった不和姫がいなくなると、政治家や権力者は復興のためと称して、庶民に重税を課した。何をするにも税金を取られた結果、不和姫がいた世界にはなかった『格差』がこの世界に病のように蔓延した。
今まではみんなが不和姫の脅威に怯えていたのだが、それが違ってしまった。お金を持つ者には太平の世が、持たない者には税金に追われる日々が訪れたのだ。同じ恐怖にさらされていたはずなのに、違ってしまった。
そうして人心はゆっくりと荒れていき、人々の怒りは平和姫に向いた。あの女が余計なことをしなければと、理不尽な怒りが蔓延し――平和姫が実名や所属を公表しない伝説のような存在だったことも手伝って――平和をもたらしたはずの彼女は、世界を新たな混乱に陥れた人物、平和姫を名乗る偽者と蔑まれ、いつしか「偽りの平和姫」(フォルステッド)という不名誉な蔑称で呼ばれるようになった。そうして、この世界でも深川絵麻の足跡は途絶えた。
優桜が訪れた異世界は、そのような経歴を持つ場所なのだ。
「ユーサ、着替えた? 朝ご飯食べよー」
台所からメリールウの声がして、優桜は生徒手帳をポケットに戻すと台所に行った。パジャマ姿にエプロンをかけたメリールウがひとつだけのコンロの前にいて、フライパンがじゅうじゅういい音をさせていた。
「はい、朝ご飯!」
メリールウがフライパンの中にあった目玉焼きをトーストに乗せ、それを半分に切って優桜の方に出してくれた。優桜は残り少ないパックの牛乳を均等に不揃いのコップにそそぐ。
優桜はガイアでは、メリールウのところに身を寄せている。といっても、週の半分ほどの洗い場の仕事を生計にしているメリールウは、決して裕福ではない。むしろ逆だ。そのためこのように、食べ盛りの優桜には物足りない食卓になることがたびたびあった。養って貰っている身では文句のつけようもなく、優桜は今日も少ない食事をあっという間にたいらげてしまった。
「今日はお給料日だから、食材いっぱい買ってこようね」
「お金貰ったら、あたし、食費入れるね」
優桜もまた、この世界でメリールウと一緒に食堂の洗い場で働いている。働かない奴が救世主だなんておかしいというのがその理由である。
救世主――真なる平和姫(トゥルーピーシーズ)なんて耳障りのいい言葉を、優桜は実のところ信じていない。この世界で生きていく方法が他になかったから身を寄せただけ。それだけ。
偽りの平和姫である叔母を見つけ出し、この世界から戻る方法を見つけたらさっさとこんな世界におさらばするのだ。そして、思いっきりご飯を食べるのだ。こんな食パン半分ではなくって。
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