桜の雨が降る 2部1章3

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 魚崎優桜は、あまり夢を見ないほうだ。子供の頃から剣道ばかりやっていて、不眠症という言葉とはまるで縁がなく、枕に頭をつければいつも心地良い疲労感でころんと眠ってしまっていた。受験の時すら適度に運動する習慣だったため、眠りが深く、そのため、夢とも縁がなかった。
 それなのに、今朝に限ってひどい夢を見た。
 例えがすぐに思いつかないのだが、野戦病院だろうか。戦争物のドラマや映画でしか知らないような場所。
 そこは、画面の中の作り物とは違って、酷い血の臭気がした。夢のはずなのに、どうしてこんなにも生々しかったのだろう。まるで誰かの記憶を、そっくりそのままなぞったようだった。
 目の前に広がる怪我人の山。手当て、手当て、手当て。自分の手は動かし続けているのに、気が急いているのに怪我人はいっこうに減らない。
 ちらりと視線を上げると、自分と同じように怪我人の血で汚れたエプロンをかけた姉がこちらに歩いてくるのが見えた。
 姉は自分の視線に気づくと、表情を緩ませた。
「……、休んできなさい。疲れた顔をしてるから」
「でも、わたしはさっき休んだばっかりよ」
 今度休むのは、自分ではなくさきほどから働き通しの姉のはずだ。
「私は大丈夫よ。それに、あなたまで倒れたら困るでしょ」
 姉はやわらかく笑った。自分と似通った面立ちなのに、彼女の笑顔はとても優しい。どうすれば姉のようになれるのだろう。年齢はひとつしか違わないのに、自分はいくつになっても子供のままだ。今だって、自分の疲れのことばかり考えていた。姉は自分を気遣ってくれたのに。
 姉の言葉に甘えて、彼女は救護所の外に出た。風が先ほどまでの血の臭いを吹き飛ばしてくれる。その心地よさに、目を閉じて深呼吸した。
 名前を呼ばれて振り返ると、いつの間にか義兄がすぐ側にいた。姉の夫。自分がかつて憧れた人。姉と一緒にいる時の彼はいつも優しかったから、家族になってくれるとわかった時、とてもとても嬉しかった。
「一緒じゃないのか?」
 義兄は周囲をきょろきょろと見回していた。姉に会いに来たのだろうか。恋愛当時と変わらぬ熱愛ぶりだ。五歳を過ぎた一児の父だというのに。
「お姉ちゃんなら救護所の中よ。わたしと順番を変わって」
 言葉は、最後まで言い切ることができなかった。
 すぐ近くで銃声がしたから。救護所の方角から、悲鳴が聞こえてきたから。
 身を固くした自分と対照的に、義兄は持っていた銃に弾丸を装填した。そして、銃声と悲鳴がした救護所の方へと慎重に歩を進める。入り口のところで、怪我をした状態で這うように逃げてきた人たちと鉢合わせした。
「!」
 義兄が息をのむ音が聞こえた気がした。
「どうした?! 中で何があった!」
その人達の頬を叩いて正気付かせて、今起きている事態のことを怒鳴るようにして問いかける。
「武装兵が……」
 掠れた声でそう告げ、後は言葉にならない人の頬を、義兄はもう一度打った。
「ま、紛れ込んでて。たくさん撃たれた」
 義兄が姉の名を呼び、中へと駆け込んでいく。自分も震える膝を叱咤し、後に続く。自分の鼓動が耳のすぐ横で鳴っているようにうるさく感じられた。
 お姉ちゃんは? 中にいた他の人たちは?
 大丈夫よ。お姉ちゃんならしっかりしているし、怪我もしてなくて元気だから、ちゃんと逃げているよ。他の出口からもう外に出ているよ。だって、お姉ちゃんはいつも言ってた。自分はとても戦えないから、危なくなったら一目散に息子と妹――自分を抱いて逃げるから、あとは貴方に任せるねと、義兄にそう言って笑っていた。その時は、息子のことをくれぐれも宜しくねと、姉は自分にもそう言っていた。
 開け放された救護所の戸口に立つ。血の臭気はさっきよりいっそう酷いものに変わっていた。
 たくさんの人が倒れている。そのほぼ中央に、黒い軍服の男が倒れていた。彼は頭を撃ち抜かれていた。銃が二丁、銃口から細い煙をあげながら転がっていた。
 すぐ横に、義兄がしゃがみこんでいた。何かを腕に抱き、泣いている。彼の泣く声だけが、今聞こえてくる唯一の音だった。さっきまで騒がしかった自分の心臓の音は、もう聞こえなかった。
「お姉ちゃん……?」
 義兄の腕に抱かれていたのは、姉だった。
 自分と同じ色の瞳は見開かれたままガラス玉のようになっていて、綺麗だった亜麻色の髪は血でごわごわと固まっていた。さっきまで元気だったことが想像もつかない、変わり果てた姿だった。
 ああ、わたしのせいでこんなことになったのだ。休憩を変わらなければ、姉はこんなことにはならなかった。
 喉が張り裂けんばかりの悲鳴をあげたはずなのに、その自分の声すら、もう聞こえなかった。
「お姉ちゃん!」
 自分のその声で、魚崎優桜は目を覚ました。
 呼吸が浅い。部活で走りこみをしたあとのようだ。メリールウからもらったパジャマが汗でべったりと肌にはりついている。
 だるい体をなんとか布団の上に起こし、優桜は目をこすった。時計を確認すると六時だった。洗い場の仕事までだいぶある。
「……お姉ちゃん?」
 ようやく頭がまともに働きだした。
 優桜は一人っ子だ。姉も妹もいない。従兄弟もみな男性だ。
 なんでこんな夢を見たのだろう。こんなにも怖い夢を見たのだろう。
 夢はあまりに現実的で生々しく、いもしない姉を喪った感覚で優桜はしばし呆然としていた。目の前にいた義兄の顔が絶望に歪んだ瞬間を優桜は覚えていて、どこかで見たような、全く知らないその顔を優桜は時折思い出しては背筋を震わせ、それなのにいつの間にか、綺麗に忘れていた。
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