桜の雨が降る 1部3章9
真犯人が判明したおかげで、メリールウに向けられていた疑いの目はなくなった。
「おはようございます!」
「おはよう」
メリールウの挨拶に、ちゃんと声が返ってくる。そのことが優桜は何より嬉しかった。
給料が出るようになった職場には人が戻り、今日もせわしなくも幸せな労働時間が流れる。優桜もだいぶ皿洗いの仕事に慣れてきた。
あれだけの酷い扱いを受けたのに、メリールウは全く気にしていないようだった。鼻歌を歌い、周囲と時に談笑しながら仕事と向き合う。
「メリールウ! あなた食器入れる位置間違ってるわよ」
「えー? ここじゃなかったっけ?」
年かさの女性に注意され、メリールウがちろりと舌をのぞかせる。
「もう。変わったって教えたでしょ?」
「ごめんなさい、気をつけます」
メリールウは謝ると、正しい棚に食器を移動させた。
多分、こういうちょっと抜けた部分が直らない限り、メリールウは周囲の人と波風を立てずにいたほうがいいのだろう。人間関係がよければ助けてもらえる。疑われたことを今根に持つよりは多分、そのほうがいい。
帰ろうとすると、経理の男性に呼び止められた。
「メリールウ。優桜。明日と明後日も入れるかい?」
「明日と明後日ですか?」
確か、どちらも仕事がなかったはずだ。
「入れますよー」
にっこり笑ってメリールウが返事をする。
「あたしも入れます」
「頼むよ」
その日、四階のアパートまであがると、いちばん手前の部屋から柄の悪そうな男性が家財を運び出していた。
確か、ここはニナの部屋だった。この騒動のせいで引っ越すことにしたのだろうか。引っ越し業者にしては荷物を運ぶ男性は柄が悪い気がしたが、メリールウが気にしていなかったので優桜も特に口に出さなかった。
夕方になると、また二階の事務所まで下りた。ウッドはまだ仕事が終わっていないようで、スーツのままだった。赤鉛筆を持って帳面とにらめっこしている。
「ウッド、まだ仕事?」
「この前金策した部分が綱渡りでな。振込のタイミングが少しでもずれると不渡りが出る」
「そういえば、ニナが盗ったお金どうなったの?」
ウッドは鉛筆を置くと、短く「もう返してもらった」と告げた。
「え? 使っちゃったっていってたよ?」
数日の売り上げと従業員の給料を掠め取ったのだから、右から左に用意できる額ではなかったはずだ。
「ああ。消費者金融から借りてもらった」
「それって、危なくない?」
消費者金融の危険さ過酷さはそれこそ優桜でもわかるものだ。もしかしたら、さっき優桜が引っ越し業者だと思ったのは消費者金融の人だったのかもしれない。
「盗ったものは返すのが常識だろ。たとえ破滅したとしても」
それは確かにそうだし、ニナの行動も態度も許せるものとはほど遠かった。自分にも一因はあるから同情はするのだが、メリールウを巻き込んだことと罪をかぶせられそうになったことは許せなかった。だからこの時、優桜はウッドの判断は正しいと思ってそれきり気にもとめなかった。
「資金繰りもキツいんだけど、人員不足もキツいな」
「そーいえば、なんで? ユーサが増えてお仕事減ったのに、今日クラウスが仕事入る日増やしてくれって」
ウッドの机にあったペン立てで遊んでいたメリールウが話に入ってくる。
「ニナもそうなんだけど、ライザとその周辺にも抜けられたからな」
「そうなの?」
メリールウが目を瞬かせる。そういえば、今日ニナとライザたちは食堂にいなかった。事件のこともあって休みを取ったか取らされたかしたんだろうと優桜は思っていたのだが、辞めていたのか。
「もっと給料のいい、盗みのおきないとこで働く、とさ」
ウッドはぼやくように言った。
「だから、優桜が入った分をひいても人手不足なんだ。おいおい募集かけるとして、当分は今いるメンバーに頑張ってもらわないと」
ウッドは最後に帳面に印をつけて机の脇に押しやった。
「じゃあ、仕事の量元に戻るのね?」
「そうだな」
「やったあ!」
メリールウは諸手をあげて飛びはねると、そのままの勢いで優桜に飛びついてきた。
「ユーサ、ユーサありがとね! 疑いもはれたし、お仕事元に戻ったし! ユーサが来てくれてよかった!」
「メリールウ、重いよ」
そういいつつも、優桜は力をこめて、飛びはねるメリールウを抱きしめた。
「若いっていいなあ」
ウッドは苦笑いでじゃれあっているかのような二人を眺めていたのだが、ふと笑顔を消すと立ち上がった。
「食事、今日は外に出ようか? 資金の目処もついたし、遅くなったけど優桜の歓迎会」
「やった! ウッドが出してくれるの?」
優桜の腕の中で、メリールウがさらに激しく飛びはねる。
「あんま甘やかしたくないが……ま、今日はいいか」
ウッドは言うと、椅子の背にかけていた上着を取って入り口へと向かった。優桜の腕から離れたメリールウが後に続く。優桜も、二人を追いかける。
いきなりヘンな世界にきて、まだ慣れなくて。戸惑ってばかりだけど。
今は、ここにこれてよかったのかもしれないなと、優桜はそんなふうに思った。
すぐには戻れない。悩みも晴れない。
だから、今は目の前にあることを、精一杯やってみよう。
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