桜の雨が降る 1部3章8
「お疲れ様でした」
時刻は二十二時。食堂が夜の営業を終える時間。
照明が落とされ、うす暗くなった食堂に人影があった。
人影は足音を立てないように歩き、手提げ金庫の収められた棚の前で止まる。
ジジジと、金庫の鍵を回す音がした。続いて、錠前がはね上がる音。
開かれた金庫の中には、今日一日の売り上げが入っていた。
人影はなんの躊躇いも見せずにそれを取り出した。
そして何事もなかったふうを装いロッカーに戻ろうとしたところで、退路を別の人影にふさがれた。
「!」
人影があとずさる。
「やっぱりあなただったのね」
新たに現れた人影――優桜は照明をつけた。
そこにいたのはニナだった。
「優桜?! 何でこんな時間に」
「今日も盗むだろうと思って、張り込んでたのよ!」
優桜はウッドの授業を途中で抜け、こっそり廊下に身を潜めていたのだ。
優桜はニナに詰め寄った。
「あなただろうと思ったのよ! みんながお給料でなくて困ってる時に、ひとりだけ鞄買ってたものね」
ニナはレジ係だ。金庫の番号を知っているし、夜の勤務にも入っていた。
「最低よ! なんでメリールウが犯人だなんて噂流したの?! 卑怯なことだって思わなかったの?!」
「……お金が欲しかったの」
ニナは呟いた。
「お金がいるのよ! 実家にはまだ小さい弟や妹がいるの。仕事がなきゃ食べていけない。けど、優桜が入って仕事が減ってしまった。あなたとメリールウがいなくなれば仕事は元に戻ると思ったのよ!」
その言葉に、怒りにまかせて罵倒するつもりだった優桜の気はそがれてしまった。
「だけど……だけど、メリールウは関係ないでしょ? メリールウだって困ってる。それは同じでしょ?」
確かに、突然やってきた自分のせいでこの食堂の人たちに迷惑がかかっているのはわかっている。しかしメリールウは全く関係ないはずだ。そのメリールウを巻き込んだことは許せない。間違ったことは許せない。
かろうじて怒りをかき集めて、優桜は言葉を続けた。
「とにかく、一緒に来て。ウッドに言いに行くから。お金を返してよ」
「嫌よ。オーナーに見つかったらあたしはクビになってしまう! お金はもうみんな使ってしまったし」
頭に血がのぼり、優桜はニナの横面を張った。人に手をあげたのは初めてだったが、不思議と後悔しなかった。
「これだけのことしておいて、まだここにいようとか思ってるわけ?!」
その時、揉み合う物音に気づいたのか人が集まってきた。
「どうしたんだ?」
「ニナと……優桜? 優桜、あなたお昼の勤務じゃなかったの?」
「この人です!」
いきなり、ニナが優桜の腕をつかんで高々と差し上げた。
「?!」
「あたしが今捕まえました。優桜が売り上げを盗んだ犯人だったんです!」
言って、ニナは自分が手にしていたコインと札束を優桜に握らせようとした。優桜は手を開かなかったので、コインは床に落ち派手な音を立てた。
「優桜が?!」
「そういえば、売り上げは優桜が入ってからなくなりはじめたな」
「ちょっ……」
ニナの方が信用があるのは当たり前だ。状況は優桜に不利すぎる。
しかし、優桜も伊達に法律家の娘ではなかった。
「違う! 犯人はニナです!」
優桜は言うと、先ほどからずっと左手に握っていた携帯電話を差し出した。
「これが証拠です。これを見て下さい」
言うと、優桜は従業員の前で携帯のムービーを再生した。
薄暗い映像ではあったものの、そこにはニナが金庫を取り出し中身を抜く様子がはっきりと映っていた。
「!」
ニナが青ざめるのを見て、優桜は奇妙な高揚感を覚えた。
以前、両親が担当した事件で被害者と加害者の主張が食い違って揉めに揉めたのだが、その時に被害者の友人が撮影していた携帯のムービー画像が決め手になって判決が逆転したものがあったのだ。
母がその時にムービーを撮影していた機転にいたく感心し、優桜に話した。だから、優桜は覚えていたのだ。母から教わったことを使うのは複雑だったが、他に確実な方法を思いつかなかった。
「ニナ……」
白い目がニナに集中する。
ニナをこんな行動に走らせたのは優桜も原因なのだから、かばうべきだったかもしれない。けれど、優桜はニナを許せないと思った。悪いことをしたものは裁かれ、罰を受けるべきだと思った。
「上の事務所まで来てもらうよ」
がっくりと項垂れたニナは、男性従業員にひかれて事務所に連れて行かれた。優桜も後をついていく。
事務所にはメリールウとウッドがいた。
「ユーサ、どうしたの? 急にいなくなって。お腹痛いの?」
自分を心配して駆け寄ってきたメリールウに、優桜は飛びついた。
「ユーサ?」
メリールウが紅い瞳を白黒させる。
「ウッド。犯人がわかりました」
ウッドは男性従業員から報告を受けていた。話が済むと、ウッドは優桜とメリールウに今日の授業はここまでで切り上げにすると告げた。
「悪いけどこっち優先だ。優桜、また明日同じ所からはじめるからな」
ウッドはそう言って優桜とメリールウ、男性従業員を外に出すと、怯えて縮こまっているニナに向き直った。
「あの……オーナー……」
「自分がやったことの重大さは当然、わかってるよな?」
ウッドの表情はしごく穏やかだった。
「確かに、優桜を入れたのはオレだ。無理やりねじこんだからシフトが崩れて、みんなに迷惑をかけたな」
理解を示すような口ぶりに、ニナの青ざめていた顔色が明るくなる。
オーナーは優しい。困った人には必ず手を差し伸べてくれる。それは、ここの従業員の誰もが知っていることだ。
「ごめんなさいオーナー。あたし、お金がどうしても必要だったんです! 働いて必ずお返ししますから」
事情を説明すれば、きっとわかってもらえると。手を伸ばしてもらえると、そう思った。
「もういいよ」
ふいに、ウッドの口調が百八十度変わった。
「御託はもういい。つーかさ、そんなきゃんきゃん吠えられてもうるさいだけだし」
ウッドの顔に、奇妙に捻れた笑いが浮かんでいた。
「オーナー?」
「オレの店なんだから、オレのしたいようにやる。従業員なんだから、みんなそれに従えよ。お前らはみんなオレのものだ。そのくらいはわかるよな? それを破ったらどうなるか、わかるよな?
なあ、オレの恩を忘れたらどうなるか、わかるよな?」
「え?」
ウッドは赤い舌で唇を舐めた。引きつった狡猾な笑みが頬に浮かぶ。
「仕事与えてやって、住む場所も与えてやって……それなのに、アンタはオレを裏切った」
ニナの顔色が明から暗へ、青から白へと変わっていく。
「当然、償い方はわかってるな?」
ニナがあげた悲鳴は、事務所の分厚い扉に遮られた。
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