桜の雨が降る 1部3章5

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 翌日は仕事がなく、優桜はメリールウと一緒にのんびりと日中を過ごした。朝食は昨日と同じでパンと卵だけだった。メリールウは顔を赤らめて、給料日前で家計が苦しいのだと優桜に話した。優桜も食べさせてもらっているのがわかっているから、それ以上は何も言わなかった。
 朝食の後は洗濯機やラジオなど、家電の使い方を教わった。メリールウは例によって言葉が足りないので聞き出すのはなかなか骨が折れた。
 夕方になると二階に下り、人の少なくなった事務所でウッドに文字の読み方を習った。ウッドは器用なことに事務所の人に指示を出しながら優桜を教え、二回目に間違うと容赦なくテキストで頭をはたいた。
「ダメ、ここ違う。宿題にするから明日提出な」
 別の世界の言語を習うというのは想像以上に難しく、優桜は何度も失敗した。そのたびに頭の上にテキストが叩きつけられる。
「ウッドってば宿題大好きなんだからー」
 横で見ていたメリールウがけらけら笑うので、思わず優桜は彼女をにらんでしまった。
 優桜はわからない勉強を従兄の明水から教わることが多かった。明水は穏やかな性格なので、こんなふうにぶたれたことはなかった。わからなければ根気よく何度も説明して繰り返すタイプなので、わからないまま宿題にされたことはない。なんとなく、ウッドを嫌いになりそうになる。
「言うようになったなメリールウ。そんな口叩くってことは、この綴り読めるようになってるんだろうな?」
 ウッドがページを繰り、優桜がやっていたものより文章量の多い一節をメリールウに示した。
「ええっ?! えっとぉ、不和姫降臨の一節だっけ?」
「テキトーなこと言うな!」
 容赦なく、メリールウの頭にもテキストが振り下ろされる。
「駅の時刻表だよ」
「えーっ?」
「メリールウも宿題。このページ全部やってこい」
「ウッドの宿題は寝不足になるんだよなあ」
 そのメリールウの話は本当で、優桜は翌日、寝不足になった。一人で考えてもなかなかわからないのだ。メリールウが付き合ってくれたが、彼女の教え方は残念ながら相当心許なかった。
 眠い目をこすりながら食堂に出て、皿を洗う。二日目で次に何をすればいいかはわかっていたが、それでもまごついてしまった。客が差し出した皿を受け取ろうとして、泡で手を滑らせてしまう。食器が音をたててひっくり返り、洗い槽に飛び込んで派手な飛沫があがった。客が声をあげる。
「ごめんなさい!」
「申し訳ありません。大丈夫ですか?」
 カウンターの外にいた、金髪の少女が即座にふきんを取り、客に尋ねる。
「困るよ。午後から会議があるんだ」
「申し訳ありません」
 幸い汚れはすぐに落ちたようで、客は優桜とニナに「気をつけてくれよ」というと足早に去って行った。
「ありがとうございました」
 優桜がカウンターごしに頭を下げると、金髪の少女は迷惑そうに眉を寄せ、吐き捨てた。
「こっちはあんたのせいで仕事が減っていらいらしてるんだから。余計なことさせないでよ」
 優桜が驚いている間に、少女は自分の仕事をしに去っていった。その日仕事が終わって食事を取りに行くと、優桜が取ろうとしたものが横からさらわれた。
「?」
 二回続いたので不思議に思って見てみると、先ほどの金髪の少女と彼女の周囲にいた数人がやっているようだった。ロッカーで着替えている時も後ろから「あんな子のせいで……」という低いささやきが聞こえた。
「ユーサ、だいじょぶ?」
 気づくと、メリールウが心配そうに自分を覗き込んでいた。
「うん。大丈夫」
 心配をかけたくなくて、とっさに優桜は笑顔を作った。
「帰って少し休もうね。夕方からまたウッドのしごきだし」
「いいわねメリールウ。オーナーにいろいろ面倒見てもらえて」
 金髪の少女の、刺々しい声がする。
 メリールウはさして気にした様子もなく「あたしもまだ勉強しなきゃいけないから」と返した。
「そうだね。メリールウは頭足りてないもんね」
 吐き捨てられた言葉に失笑が重なる。優桜はかっとなったのだが、言い返すことはできなかった。メリールウはといえば酷いことを言われたのに、一緒に笑っている。
「メリールウ……」
 ひとしきり笑ったあとで、メリールウは伸びをするとロッカーを閉めた。
「帰ろ、ユーサ。お疲れ様でした」
「……お疲れ様でした」
 お腹の中が煮えくりかえりそうになりながら、優桜はかろうじてそう挨拶をした。
 外に出た瞬間、優桜はメリールウにくってかかった。
「メリールウ、今のいいの!?」
「? 今のって?」
 メリールウはきょとんとした顔をしていた。
「さっきの、金髪の人! 今の、ひどいよ!」
「んー。ライザははっきりした子だからね」
 メリールウはそう言ったのだが、さっきのははっきりしているというレベルではないと優桜は思う。
「いくらはっきりしてたって、人の前で頭足りないって笑い物にするのはひどいよ!」
「でも、本当のことだから」
 メリールウは笑っていたが、その笑顔が寂しい。
「あたし、本当に頭足りてないからね。仕事も、ユーサは今日ちゃんと段取り覚えてたけど、あたしは一週間くらい覚えられなくてみんなに迷惑かけた」
「けど、最初に迷惑かけたからってあんな酷いこと言っていいわけない!」
 かろうじて、優桜はそれだけ口にした。ライザのあの態度は間違っていると思ったから。
 自分にされたことだけでも腹が立つのだ。確かに失敗した優桜が悪いのだが、あんな言い方をしなくてもいいと思う。従業員はワークシェアリングを理解していると聞いていたのだが、今日のライザの態度を見ているとどうやらそうではないらしい。
「ユーサは優しいんだね」
 メリールウにしみじみと言われ、優桜は目を丸くした。
「どうして? 間違ってることを間違ってるって言ってるだけだよ?」
「普通は放浪者のことなんて、みんな誰も気にしないんだよ」
 放浪者は国の最高権力者である国王に忌み嫌われた民族だ。関わりがあった者もまた、放浪者ではなくとも共に迫害された。そのため、長い時が経った今でも、放浪者と親しく関わり合いたくないという風潮が残っているのだそうだ。
「ユーサは優しい。ウッドも、優しい。だから、あたしは波風立てたくないんだ。ウッドに迷惑かけたくないよ」
 だから、笑って受け流しているのだろうか。
 そんなことないよと言いたかった。ウッドだって迷惑だなんて思わないと言いたかった。
 けれど、たった数日の付き合いではウッドのことをそこまで知っているわけではなく、メリールウの波風を立てたくないという気持ちもわかった。結局、優桜は何も言うことができなかった。
 ただ、メリールウの方法は、優桜の目にひどく悲しく映った。
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