桜の雨が降る 1部3章4
ビルの前に戻ると、ウッドが手にした懐中時計を覗いていた。今日はスーツではなく、Tシャツにジーンズ姿だった。昨夜は結んでいた髪をほどいているので印象が違ってみえる。昨夜より若く見えた。
「優桜、仕事はどうだった?」
優桜たちの姿を見つけると、ウッドは懐中時計をしまって近づいてきた。
「忙しかったです。その……初めてだったんでたいへんでした」
最後の方のとってつけたような言葉に、ウッドは笑うとばんばんと優桜の背中を叩いた。
「そっか。頑張ったんだな。やってりゃそのうち慣れるから大丈夫だよ」
痛みに優桜は思わず眉を寄せた。
「食事にしよう。やっぱみんなで食ったほうがウマいだろ」
ウッドはそういうと食堂に入っていった。食堂は夕方も営業していたが、昼間と同じ人は数人だけだった。おそらく、働く人を入れ替えているのだろう。
食堂で食べるのかと思ったらそうではなく、どうやら注文してあったらしい持ち帰り用の料理を受け取っただけだった。レジにはニナと呼ばれた少女がいて、和やかな笑顔でウッドに包みを渡した。そのまま螺旋階段で上の事務所に行き、昨夜使った来客用のソファに落ち着く。
持ち帰り用に包まれた中にはパンと野菜炒め、薄切り肉を油で揚げたものが入っていた。簡素なものだが量はたくさんあり、何より温かい。一緒にあった魔法瓶の中にはコンソメスープらしい液体が入っていた。
ウッドとメリールウが具材をはさんで食べていたので、優桜も真似してみた。半日働いて満足できる量を昼間食べなかったので、お腹がすききっていた。味の濃さは今ではそんなに気にならなかった。
黙々とほおばる優桜を見て、ウッドは自分の前にあったパンを優桜のほうに押しやった。
「たくさん食べな。食べなきゃ動けないだろ」
「やっぱり人と食べるご飯はおいしーね」
メリールウはパンくずを頬につけながら笑った。ウッドが苦笑いして手を伸ばし、それを取ってやっている。
「メリールウはいつまでたっても子供みたいだよな。直せって言ってるんだけど」
どうやらこの異世界でも、メリールウの行動が幼いと思う感覚は現代のもので間違いないらしい。
「ぶー。そこが可愛いって言う人もいるんですからねっ」
「どうせサリクスだろ。アイツはアテになんねーよ」
ウッドは魔法瓶からコップに液体を注いだ。美味しそうな香りが漂う。
その誘惑に耐えきれず、優桜は冷まさずにスープを口にした。案の定飛び上がるほど熱く、悲鳴がもれた。
「きゃっ」
思わず舌を出す。舌の先がびりびりと痺れたようになっていた。
「優桜も子供みたいだな。優桜の世界では十六歳はまだ子供なんだっけ?」
「ウッドさんは日本のこと知ってるんですか?」
メリールウよりはるかにものを知っていそうなウッドに、優桜は問いかけた。
「ウッドでいいよ。ユーサの世界はニホンっての? チキュウじゃなくて?」
「国の名前が日本だから、世界は地球になるのかな」
自分の世界の説明なんて、優桜は考えたことがなかった。
「オレは全部知ってるわけじゃないよ。ただガイアと別の世界があることと、そこがチキュウっていうことや常識が似たようで違う、ってことは知ってる」
「そんなの、どうやってわかったんですか?」
ウッドは一瞬表情をなくしたが、その次には破顔一笑していた。こちらがつりこまれそうな笑顔だった。
「カミサマがオレに教えてくれるの。お前は正しいことをするために全て知っておきなさい、ってね」
「え?!」
「ウッド、そうやっていつもごまかすんだから」
メリールウの口調は刺々しかったが、顔は笑っていた。おそらく冗談なのだろう。
「メリールウも努力してみな。見えるようになるかもよ?」
「それもいっつも言うー」
「優桜、今日はどうだった? 何か困ったことはあった?」
ふくれっ面のメリールウは放置することにしたらしく、ウッドは話の対象を優桜に戻した。
「メリールウがいてくれたから大丈夫です。お金とかご飯とか、全部お世話になっちゃいましたけど」
優桜の日用品を買うお金も、ジュース代もメリールウが払ってくれた。
「ああ、大丈夫だよ。そのくらいは経費から出すから。メリールウ、領収書ちゃんともらってるだろうな?」
「え、金額言うだけじゃないの?」
思わず、優桜の肩が下がる。経費に領収書が必要なことは、高校生の優桜だって知っている。
「領収書がないと税務署に経費だって認めてもらえないんだよ。まさかなくした?」
ウッドに吐息混じりで言われ、メリールウは慌てて財布を取り出した。
「最初に優桜に必要なものは経費から払うから。昼は食堂で出るし、朝と夜は今はメリールウに食べさせてもらって、食堂の給料が出たら食費入れてやってくれ」
「お給料って、銀行口座とかいるんですか?」
手渡しだとウッドは言った。週払い制なので、明後日には給料がもらえるとのことだった。
「とりあえず、今は昼間は食堂を手伝ってくれ。夕方になって事務所が終わったら、オレが読み書きや計算教えるから。それを覚えたら洗い場じゃなくて他の仕事もできるようになるだろうから、仕事に入る日を増やせるだろ。エレフセリアのことは用件が出てきたら教えるよ」
エレフセリアのことは誰にも言うなよと、ウッドは優桜に釘をさした。
「あんたみたいに左翼って聞いただけで顔しかめる人の方が多いからな。食堂で働いてる人はエレフセリアには関わってない人がほとんどだから」
では、メリールウは例外なのだろう。ウッドが優桜の世話を任せているあたり、信用されている人物なんだろうなと優桜は思った。そのわりにメリールウはまるで子供のように抜けている部分が目立つが。
「エレフセリアって、ここでやってるんですか?」
ウッドは頷くと、人差し指を立てて階上を示した。
「ここの三階が本部だよ。この事務所の倉庫ってことになってるけど」
「ここって、貴方のビルなんですか?」
ウッドは肩をすくめた。
「一応な。おかげで固定資産税がつらくてつらくて」
「凄いですね。ビルのオーナーだなんて」
「凄くないよ。親父からの貰いもんだから。負の遺産って奴か」
「負の遺産?」
「だから、固定資産税がキツいっつったろ」
ウッドはため息混じりにそう返した。言葉の中に、どこか拒絶するような音がある。
深く聞かれたくない話題だったのだろうか。優桜も父親のことが苦手だから、わかる気がした。
「どうせならもっといいとこに建物作りゃいいのにな。そうだ優桜、出歩く時は気をつけろよ」
「何を?」
「ここ、あんたがいた世界ほど治安は良くないから」
日本の治安の良さは有名だ。しかし、その中で育ち海外に出たことのない優桜には、危機感がピンとこない。
「武器を携帯してたほうがいいな。優桜、何か使える武器はあるか? 剣でも銃でもナイフでも」
「武器?!」
優桜はぎょっとして声が跳ね上がったのだが、ウッドはいたって真顔だった。
「そんなの持ち歩いて捕まらないんですか?」
優桜の疑問に、ウッドは真顔で首を振った。
「捕まらないよ。むしろ治安の悪い場所があるから、持っておいた方が護身用になる」
「そんなに治安が悪いんですか?」
「この辺は昼間はそうでもないけど、日が暮れたら女の子はひとりでうろつかないほうがいいぞ。繁華街なんかは昼でもあんまり行かない方がいいな」
昨日の場所が繁華街なのだろうか。確かにあんなふうに声をかけられるのだとしたら、頼まれても行きたくない。優桜はこくこくと何度も頷いた。
「竹刀なら。剣道やってたから、少しは使えます」
「シナイ?」
異世界のことを知っているらしいウッドでも、さすがにそこまでは知らなかったらしい。
「剣、っていったらいいのかな。大きさはこのくらいです」
「わかった。用意しておくよ」
その時、メリールウが泣き声をあげた。
「ウッドー、領収書一枚見つからないー!」
ウッドの答えはとても簡潔だった。
「じゃ、諦めてくれ」
「えー! 今からお店に行ってもう一度もらってくる!」
慌てて立ち上がったメリールウをウッドが止める。
「危ないからよせ。それに領収書は再発行してもらえないんだよ」
「本当?」
「ひとつ賢くなったな。次から覚えておけよ」
はーいと元気に返事してから、事態が全く解決していないことに気づいたらしい。メリールウは再び慌てだした。
「どうしよう?!」
「どうしようもないな」
メリールウは諦めきれないようで、財布の中をごそごそひっかき回していた。
「ないよー。お財布と一緒にしてたのに」
「ポケットの中は?」
思わず聞いた優桜に、メリールウはぱっと笑顔になった。
「そっか! お財布はポケットの中だったんだよね」
優桜の予想通り、ポケットの底にはくしゃくしゃになった領収書が入っていた。メリールウは文字通り小躍りして喜び、その大げさぶりに優桜とウッドは目を見合わせると、同時に苦笑した。
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